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「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」by SMART USEN
――山﨑さんがファッションに興味を持たれたのは高校2年くらいからというお話でしたが。
「高1までは、親が買ってくれていた服を着ていたのですが、ケンゾーが好きでよく着ていました。Tシャツとかもおしゃれでしたしね。家族みんなが洋服好きだったのですが、特に叔母が洋服関係だったこともあって、本当に服が好きな人だったので、だから服に関しては叔母の影響が大きいです」
――番組内のトークでもスーツを着て大学に通われていたというエピソードがありました。
「エンポリオアルマーニのスーツの上にウンベルト ジノケッティのコートを着てました(笑)。でも、大学2年の時には、エーグルとかアウトドア系のファッションもやっていたし、コム・デ・ギャルソンのようなモードとか、イタリア物も好きでしたね。“今日は画家になろう!”とか毎日テーマを決めて、画家みたいな格好をして学校に行ったり(笑)。大学4年の時は、最終的にドリスヴァンノッテンとかのアントワープ系が好きになって、とにかくひととおりのファッションはやりました」
――大学の時は、服を買うために不思議なアルバイトをされていたとか?
「海釣り公園で、入場券を切って、園の人の仕事を手伝って、掃除してって、いいバイトでした。大学2年から4年までの2年間続けましたもん。そこで1メートルの鯛が釣れるんですよ(笑)!正月とかは鯛を追加しているから、一瞬で釣れてしまって、グラム数だからお客さんからその分のお金を払ってもらわないといけなくて、よく文句を言われたのを覚えています」
――そうやってイギリスへ留学するために400万円の貯金をしていたわけですね。
「留学したかったのですが、結局行けず。それで、もうお金を貯めても意味がないから、ロスにいた幼馴染の所に行って、一気に200万円を使いましたね。就職までの間に、400万円が綺麗に無くなりましたよ(笑)」
――大学の時にはクラブにも結構通われていたとか。
「大阪のクラブに、白い服を着て行ってました(笑)。白い服の方が目立つし、ブラックライトで綺麗に映りますから。ルイス(Lui's)で働き始めてからも、パツパツのレザーパンツを履いたり、今では考えられないですが。いっしょに働いていた女性スタッフたちにもクラブ好きな人が多かったから、仕事中はおとなしめな格好していても、仕事が終わったら、ピッカピカのスパンコールの服とか着て出かけていましたよ」
――当時はどういう音楽が好きだったんですか?
「いろんなジャンルのイベントに行っていて、音楽というよりも、クラブの空気感が好きだったんですよ。当時のクラブって、面白いことをやっているといろんな人に声を掛けられて、そうやって人と話すのも楽しかったですしね。パリのクラブに行った時は、そこのクラブの半分を貸し切っていた日本人に“君たち面白いから、好きな飲み物を頼んでいいよ!”って。楽しい思いがたくさん出来ました」
――90年代の東京のクラブって、お金を持っている人たちが遊びに来ていて、シャンパンとかも流れるように飲まれていましたからね(笑)。
「閉塞感のない時代でしたし、いっしょに遊んでいた人たちと“これが夢の世界だ!”って言っていたのを覚えています。その頃は、いまよりもファッションと音楽が繋がっていましたよね」
――確かにファッションと音楽の時代でした。
「ただ、33歳の時に、六本木のどこかのクラブに酔っ払って行っていたんですが、サンダルで踊っていたら、爪が割れて足が血だらけになったんですよ。飲みすぎてるから、痛みもなく。次の日、仕事の時に“どうされたんですか !?”ってなって、朝、起きれるのは起きれるけれど、“こんなになったらあかんわ!”って。それでクラブは卒業しました(笑)」
――パルではルイスからスタートしてどんなお仕事を?
「入社して3年目の時に店長になったんですが、ただ、お店の売り上げが目標の半分しかなく。これは“何かしないと売れない!”と思って、レディスを作らせてもらいました。当時の仕入れ担当にファッション誌の切り抜きを渡して、“こういうブランドのこんな形をオーダーしてください!”って頼んでいたのですが、“お前が自分でやれ!”ってなって、自分で展示会に行くことに(笑)。あるブランドさんで、買取の条件が合わなかったから、次の日にもう一回そのデザイナーさんの所に行って、“必ず売るから委託にしてほしい!”ってお願いしたりしてましたね。その後、もっとレディスを売るためにガリャルダガランテ(GALLARDAGALANTE)を立ち上げたり、その他にもいくつかのブランドも作らせてもらったり、とにかくいろいろやりましたよ」
――ガリャルダガランテは2021年で20年目を迎えました。
「実は、このコロナ禍もあって、内容を変える方向で動いています。10年前にも一度変えているのですが、最初は、オーストリッチとかを置いている濃いブランドで、ちょうど売れ方のカーブが変わりはじめた時期に、綺麗系ファッションが強くなってきたタイミングで、ガリャルダガランテなりの綺麗に見えるモードに路線を変更したんです。そして、10年後のコロナ時代に原点回帰で、このSSとAWから新しい形のカジュアルと、ガランテらしい個性の方向に組み替えしている最中なんです。ライフスタイルも始めますし。やはり、どこよりも一歩先をやっていかないといけなくて、先駆者になれるかどうかが大事なんですよね」
――さまざまなブランドのリブランディングなども手掛けていますね。
「売れなくなり始めた時は、売れていた時の方法をいまの形で再現するんです。すると、大体売れるんですよ。売れていた時期の山の時に何が起こって、そしてどの時にどんな層に評価されたのか、という部分を考える。そこに全部のヒントがあるんです。そしておしゃれすぎてもダメで、お客様の1歩か1.5歩くらい先の物を考える。3歩も4歩も行ったら、ついて来れる顧客さんしかいないわけですよ。盛る部分とブランドのファン層さえ見誤らなければ、ちゃんと売れるんです」
――昨年、店舗をリニューアルされましたが、店舗の役割りはどのように考えていますか?
「店頭での展開の服やその見せ方は30日周期だと思っていて、1ヶ月ごとに売れ続けているものをのぞいて新しい商品に変えて、あとは売り切りの方がいいと思っています。変わっていかないと、いまって、なかなか店頭に来てもらえない。ECでは、いくらでも展開させていいと思うのですが、店舗に長く同じ物があるというのは、美徳ではなくなってしまったんです。もしかして、ネットで買ったほうが、安く買えてしまうかもしれないですし。面白い事をやっていないと行く意味がないですよね」
――店舗に来てもらうための意味を作るということですか?
「いまそれをやっていますね。僕はライフスタイル担当をやっているのですが、それは新しく始める事なのですごく楽しいですよ。いま、知り合いのみなさんに好きな作家さんを紹介していただいて、コラボレーションしていく形で進めています。今回、ご協力いただける作家さんたちと、Zoomなどでお話しているのですが、考え方が洋服とはまったく違うので楽しいですよね。限定的に1ヵ月くらいで展開して、“お店に来たお客様が楽しんでもらえる物をどう提案するか?”という部分に、今回の面白みがあるんです。もちろん初めての試みですので、“売れないかもしれないですよ”とは言っているのですが、“そういう事をやれるのが楽しい!”と言ってくださる作家さんもいて、ありがたいですよね」
――お店にオブジェとして置いてある石と、アクリルの椅子も良かったです。
「石は伊達冠石といって、白石蔵王の大倉山の石なのですが、友人の写真家がやっているんです。アクリルの椅子は狩野祐真さんというプロダクトデザイナーの作品で、「SOMEWHERE TOKYO」というギャラリーで拝見して、狩野さんに連絡を取ったという感じです。その後も狩野さんに“文鎮を作ってください!”ってお願いしていまして、良い物が出来そうですよ」
――いろんな楽しい事と人を繋いだり、アグレッシブですよね。
「こういう時代だからですよ。店を閉めるとか、売り上げが立たないとか、そういうマイナスな事がある時だからこそ、プラスの事をやらないといけない。マイナスの事はプラスに考えながらやっていくというのがひとつ。もうひとつは、まったく違う事で脳を働かさないと考えが降りてこないんですよね。宗教はやってませんが(笑)。マイナスの時って、落ち込むかもしれないけれど、惑わずに“これは良き指示だから、良き指示になるように頑張ろう”、そんな感じでやってます。あとは、上下関係とか、役職とか肩書きにとらわれる事なく、その人を見て、その人と仕事をする事がすごく重要になる。今後はそういう時代になっていくと思っています」
(おわり)
取材協力/ガリャルダガランテ表参道店
取材・文/カネコヒデシ
写真/柴田ひろあき
■山﨑 修(やまさき おさむ)
株式会社パル 常務執行役員 第七事業部長。1971年生まれ。京都在住。ガリャルダガランテ、ビアズリー、ドローイングナンバーズなどのプロデュース、ウィムガゼットのリブランディングなどを担当。
■久保雅裕(くぼ まさひろ)
ウェブサイト「Journal Cubocci(ジュルナル・クボッチ)」編集長。杉野服飾大学特任教授。繊研新聞社在籍時にフリーペーパー「senken h(センケン アッシュ)」を創刊。同誌編集長、パリ支局長などを歴任し、現在はフリージャーナリスト。コンサルティング、マーケティングも手掛ける。