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「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」by SMART USEN



──ニューヨークのパーソンズ・スクール・オブ・デザインには、何年間通われていたのでしょうか?

マリエ「私は社会人コースに通っていて、サティスフィケーション(卒業資格)がもらえるのは通常約2年ほどかけるものなのですが、1年で卒業して、そこから教授の元で勉強とお仕事をさせてもらう機会をいただいたので、23歳で渡米して、日本に戻ってきたのは28歳なので5年間ですね。学校に通っていたのは1年間で、あとの4年は日本とニューヨークを行き来しながら勉強していました」

──どの様なお仕事を?

マリエ「私が卒業した後に、教授がたまたま自身のファッションブランドをオープンさせたのですが、スタッフもいなかった事もあって“働かない?”とお誘いいただいたんです。それでインターンみたいな感じで、アシスタントとしてコーヒー出しから、掃除から、何でもしました(笑)」



──留学した当初はあまり英語が話せなかったという事でしたが、1年後に働き始めた時はどうでしょう?

マリエ「日常会話くらいは出来ていたのですが、難しい話までは出来ず。ただ成績が良かった評価で、お声を掛けていただけたと思ってますので、まずは言われた事をひたすら黙々とやってました。でも、“やっと自分の好きな事で認められた!”という感覚があったので、嬉しかったですし、楽しかったです。出会いに感謝ですよね」



──ニューヨーク時代にびっくりした経験や、面白かったエピソードがあれば教えてください。

マリエ「渡辺 謙さんが自転車で走っているのを見ました。東京でTVのお仕事をしているときも会った事ないのに。“本当にいるんだ!”って(笑)」

──それは事件ですね!

マリエ「あとは、ラッパーのモス・デフとご飯食べたり、今や大スターになってしまいましたが、エイサップ・ロッキーにも出会いましたし、ニューヨークにはすぐそばにさまざまなエンターテインメントがあって、日本では体験できないような事をたくさん経験できたと思っています。ファッションの面でも、教授がブランドをやっていた事もあって、ふつうでは出会えないような人たちにもたくさん出会えましたし。それにパーソンズにいた事で、トミー・フィルフィガーさんとか、アナ・ウィンターさんといったデザイナーとお話が出来た事も私にとっては大きいです。とにかくいろんな出会いがありました。やはりニューヨークという街は、本物がすぐに近くにいるという状況ですごく刺激的でしたね」

──トミー・フィルフィガーさんとはどんな状況で出会ったんですか?

マリエ「パーソンズでトミーさんの講演を聴講した時に、質疑応答で“日本ではトミー・ヒルフィガーはスポーツブランドのイメージですが、それについてどのようにお考えですか?”と質問したんです。トミー・フィルフィガーって、アメリカではコレクションブランドで、ドレスもやるし、スーツもやるようなブランドなんですよ。でも、当時の日本ではその認知がなく、スポーツブランドみたいな感じの扱いだったんですよね。彼はその質問を気に入ってくださったみたいで、“来年(2012年)の4月に表参道という場所にフラッグショップを建てるから、君を招待するよ!”って。それで本当にニューヨークから東京までの航空便のチケットを送ってくださったんですよ。ただの聴講者ですよ、私(笑)!有言実行のレベルが違いますよね」

──それは忘れられない出会いですね。そういえば、帰国されてユニフォームの制作をされていたそうですが、どういった経緯で?

マリエ「ミュゼプラチナムさんのご依頼だったのですが、実はきっかけはいまだに分かっていないんです(笑)。女性社員が何千人といらっしゃる会社で、社員が喜んでくれる人にお仕事を頼みたいという事で、お声を掛けていただいたみたいなのですが“もちろんやります!”と」

──ユニフォームは、機能を考えて作らないといけないから結構大変だったのでは?

マリエ「最初に何店舗かをまわって、ユニフォームも着させてもらって、施術のしかた、体勢や姿勢だったり、何が必要なのかをリサーチして、ポケットも大きいと物を詰めすぎてしまうから大きくしすぎないとか、あとはお昼ご飯を食べた後におなかが目立ったら嫌という女性特有の悩みを聞いたり……とにかく、理想のユニフォームを作ってあげたいと思って頑張りました。でも、実はそういう部分って、すでにパーソンズ時代に商業デザインとしてちゃんと教わっていたんですよね」



──パーソンズの教授には“自分の好きなものは作るな。自分の好きなデザインは表現するな”と言われたとか?

マリエ「まず“大衆が何を求めているのか?”という部分を知る事が大事だと。ユニフォームみたいな商業的ファッションにおけるデザインの大事な考え方をブレイクダウンしてくれる学校だったので、習ったことを忠実にやったという感じでしたね。とにかく、ビジネスマーケティングに関しては、かなり進んだ教え方をしていて、あらためてビジネスに長けた学校だったんだなと思いましたよね」



──現在のマリエさんの原点なんでしょうね。さて、ご自身のブランドPASCAL MARIE DESMARAIS(パスカル マリエ デマレ)はTシャツからはじめたという事で、なぜTシャツから?

マリエ「そのユニフォームの制作と、ラジオのパーソナリティをやりながら、2017年くらいに自分のブランドを立ち上げたという感じなのですが、予算もないから、まずは女性も男性も気にせず着れるような、ユニセックスのオリジナルTシャツを作ってみようと。それが最初のきっかけでいいんじゃないかなと思ったんです。さまざまなデザイナーの歴史を見ていくなかで、たとえば、トミー・フィルフィガーさんは最初はデニムが友人たちに火がついて広がったとか、そんな感じでひとつのアイテムからビジネスがはじまっているので。それで最初は72枚限定でやって、それは完売できたので良かったなと。次に、アルティメイトピマという、シーアイランドコットンと呼ばれている物のなかでいちばん良い生地を使ったTシャツを作ったんです。それが3万円くらいの値付けをしたのですが、全然売れなかった(笑)。でも、キープしていた在庫が今になって売れているんですよ。そこから別のアイテムを作って、卸しについて調べたり、展示会をやってみようとか。とにかく試行錯誤でものごとを進めていますね」



──ご自身のブランドをはじめた時に、お店を持つという選択肢はなかったのでしょうか?

マリエ「無かったですね。もちろん将来的に店舗を持ちたいという希望はありますが、立ち上げ当初から“今の世の中で、それも東京にショップを持つ事が正解なのか?”という疑問がありまして。洋服を売る事が自分のやりたい事の最終ステージではないので、東京に店舗を持つ事が未来のビジョンには無かったんですね。でも、もしもニューヨークにお店を持ったりした時に何がしたいかというと、つてが無いけど留学したいとか、働きたいとか、そういう人たちにもっと場所を与えられたらなと。若い人たちに手を差し伸べる事ができるようなブランドになって、踏み台にしてもらえる場所にしたいと考えています」

──ワーケーションに近いような場を提供するという考え方なんですね?

マリエ「日本人もそうですが、それ以外の国の人たちもみんな結局、ビザの問題で悩んでいるんですよね。それだけが原因で学べない、働けないというのであれば、自分がそれを差し出せる人間になれればなと。それが将来の展望です」

──それだけご自身が留学した体験が鮮烈だったという事ですね。

マリエ「そうですね。ニューヨークにお店を出すとしたら、茅葺き屋根のショップを出すのが夢なんですが、LVMHに買ってもらわないとダメですよね(笑)。 とにかく、パーソンズ時代のいろんな人たちとの出会いがあって、いろいろなラッキーが重なった事もあって今の自分がある。だから、出会いには本当に感謝しています」

(おわり)

取材協力/port of call DAIKANYAMA(株式会社リノベーションプランニング)
取材・文/カネコヒデシ
写真/柴田ひろあき




■玉木パスカルマリエ(たまき ぱすかる まりえ)
モデル、タレント、デザイナー。1987年6月20日生まれ、東京都出身。10歳のときにスカウトされ、モデル活動を始める。2005年、ファッション雑誌『ViVi』(講談社)のモデルに抜擢。「東京ガールズコレクション」、「神戸コレクション」などのショーに出演。その後、TBS系「アッコにおまかせ」、フジテレビ系「笑っていいとも!」などでレギュラーを務める。2011年9月、ニューヨークのパーソンズ美術大学に留学。2012年7月、帰国。2017年6月、自身のブランドPASCAL MARIE DESMARAIS(パスカル マリエ デマレ)をスタート。

■久保雅裕(くぼ まさひろ)
ウェブサイト「Journal Cubocci(ジュルナル・クボッチ)」編集長。杉野服飾大学特任教授。繊研新聞社在籍時にフリーペーパー「senken h(センケン アッシュ)」を創刊。同誌編集長、パリ支局長などを歴任し、現在はフリージャーナリスト。コンサルティング、マーケティングも手掛ける。



■第41回のゲストはパスカル マリエ デマレのマリエさん!







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