いい歌でありさえすれば必ずヒットする。
これが歌の本来あるべき姿です。しかし、現実は強力なタイアップが付いていなければ売れない時代です。いかがなものか?と思います。この風潮に私はあえてアンチテーゼを投げかけたい。いい歌は売れるべきだし、たくさんの人たちに聴いてもらいたい。そんな“音楽愛”が私のポリシーです。

こんないい歌、聴かなきゃ損!

今回は永井龍雲さんの「献杯」を紹介します。

永井龍雲の40周年記念作品「献杯」は前作シングル「顧みて/親友への手紙」に続く“人生3部作”で友との別れをテーマにしています。60代になると同世代の友人の訃報に触れる機会が多くなり“死”というものが射程に入ってきて「お前に献杯」と心の中でつぶやくことが多くなります。私も高校時代の友人を最近亡くしたばかりで、会ってもっと話をしておけば良かったと後悔するばかりですがそれも詮ないこと。今できることは「今日までよく頑張ったね。あとは私が引き継ぐから、献杯!」と人生最後のエールを送ることだけです。

だからこそ、「献杯」は友人に対する人生の〈ラストファンファーレ〉なのだろうと私は思います

龍雲と初めて会った日は?

「ところで、龍雲は私と初めて会ったときのことを覚えている?」

「さあ、どこでしたっけ?」

42年程前の1980年に私が書いた「永井龍雲―負け犬が勝つとき―」(サンケイ出版)にそのときのことが詳しく書かれているので紹介しましょう。

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19784月下旬のこと、キャニオン・レコード宣伝部の臼井達明(現在、九州ポニー)から筆者にこんな電話があった。

「実は来週、例の九州の大物、永井龍雲が4日ほど東京に出てくるんですが、良かったらぜひ会ってもらえませんか」

臼井からそんな電話をもらったとき、すぐに会ってみようと思った。
なぜなら、その前にすでにアルバムのテープをきいていて素晴らしいボーカルだと思っていたからだ。

51日、銀座三越隣りにある喫茶店“オリエント”で初めて龍雲にあった。印象は、ずいぶん若いな、という感じだった。
そのとき、アルバムの感想を述べ「詞が甘い」と指摘し「沢木耕太郎の一連の作品を読んで少し勉強したら」と言ったことを覚えている。しっとり叙情的なボーカルは確かに素晴らしかったが、歌としては完成はしていなかった。そのときはまだ龍雲に大ノリはできなかった。

523日、今度は渋谷の“ワルツ”でマスコミ用のレセプションが開かれた。そこにはマスコミが多数かけつけ、龍雲は数曲ギターの弾き語りでうたった。マスコミに対して初のお目見えということで、龍雲はとてもあがっていて、トチッて再び頭からうたい直すという一幕もあったほどだ。

福岡からFM福岡の村元と一緒に見に来ていた松尾は、そのときの思い出を語る。

「私は、東京でどんな反応を受けるかそれが知りたかったので、ワルツにわざわざ行きました。東京での反応を知っていないと、福岡で適切なプロモートができないからです。正直言って、あがっている龍雲を見てまだまだだと思いました」

スタッフ・サイドの意見も、大方は松尾と同じだった。

中井、岡本、そしてキャニオン宣伝部が相談して、龍雲の良さを伝えるには生のコンサートを見せるしかない、という結論に達し、東京からマスコミを数社、福岡に連れて行くことにした。そうすることにより、龍雲の本当の良さを広くアピールしようとしたのだった。

69日、福岡明治生命ホールで、龍雲の2回目のワンマン・コンサートが行われた。1回目の久留米市民会館よりキャパシティは2倍になって600席だったが、このときも満員だった。龍雲はアコースティック・ギター1本の弾き語りで、切実にうたいかけた。それが主に若い女性にアピールした。東京からかけつけた取材陣も、目の前で龍雲を見て、その素晴らしさに改めて感心していたようだった。

821日に、シングル第2弾「星月夜」が発売された。

龍雲の活動はあいかわらず福岡中心だった。
この頃、FM福岡の〈龍雲のミュージック・ラブレター〉も番組として人気番組になっていた。それに伴い、福岡の龍雲人気も飛躍的に高まっていた。

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評論家として私は「永井龍雲」に賭けました!

幸いなことに、ニューミュージック・シーンの状況も彼にとっては好都合でした。78年後半に松山千春が「季節の中で」の大ヒットで浮上したことにより、“北海道の千春”に対して、福岡で千春のパターンを踏襲していた“九州の龍雲”に注目の視線がいっせいに向けられたのです。

彼に対する周囲の期待感は日増しに高まっていきました。ちょうどそんなタイミングをとらえたかのようにCMソングの話が舞い込んできました。千春が「季節の中で」をヒットさせ、スーパースターになるきっかけとなったグリコ・アーモンド・チョコレートのCMソングでした。そうして「自分の人生を賭けて作った」のが「道標ない旅」でした。この曲は79821日に発売されました。この歌には青春時代を前向きに走る彼の心情が素直に吐露されていました。

彼に向かって“時代の風”が吹きはじめました。「道標ない旅」は順調にヒット・チャートをかけのぼって、11月中旬には20位に“赤丸急上昇”でランクされました。ベストテン突入はその勢いから時間の問題だと思われました。ところが、思わぬアクシデントが勃発します。グリコ・アーモンド・チョコレートのCFに出演していた山口百恵が、三浦友和と“恋人宣言”をしたのです。

百恵、友和という当代随一の人気カップルの突然の恋人宣言だけに、マスコミはこぞって特集を組み、大衆の関心もいっせいにふたりに集まりました。グリコのCFも突然、百恵、友和がふたりで出演している古いフィルムに代えられました。話題性を狙ってグリコが差しかえたのです。当然のこととして、「道標ない旅」は一瞬にして差しかえられオンエアされなくなりました。「これから…」というときだっただけに、このアクシデントは致命傷でした。当時、龍雲の宣伝の陣頭指揮をとっていたキャニオン・レコード宣伝部の丸山寿敏さんは天をあおいだものです。

「とても残念でした。でも、グリコさんをせめる筋合いではないし、怒りをどこにぶつけたらいいか、わからなくてたまりませんでした」

結局、「道標ない旅」はスマッシュ・ヒットで終わってしまったのです。

龍雲に対して私は評論家として、「次代を担うスーパースターになる」と宣言したのです。これは大きな賭けでした。もしも龍雲が売れなかったら、私は評論家としての信頼を失うことになるからです。結局、「道標ない旅」はスマッシュ・ヒットで終わってしまったのです。と同時に、私の賭けも失敗したのです。

この見解は私サイドから見たものですが、あの頃、龍雲はどう思っていたのだろうか?その辺の本音を今回初めて尋ねてみました。今回、龍雲は本音で話してくれました。〈radio encore〉ぜひ聴いてみて下さい。

radio encore「Age Free Music 富澤一誠のこんないい歌、聴かなきゃ損! 」第6回 永井龍雲さん

永井龍雲 「献杯」

負け犬が勝つときはいつか?

早いものであれから42年という年月が流れてしまいました。龍雲は現在、65歳、キャリア45年のアーティストとして独自の存在感を持っています。そんな龍雲と私は今、再びタッグを組んでいます。演歌・歌謡曲でもない。Jポップでもない“良質な大人の音楽”を「Age Free Music」と名付けて、私は同名のレーベルをテイチクエンタテインメントに立ち上げました。龍雲はその第1弾アーティストです。顧みて自分の人生を改めて振り返った時、これからやらなければならないことが鮮明に見えてくる。今、龍雲と私には“『永井龍雲・負け犬が勝つとき』その後”の地平が見えてきました。

シングル「顧みて」(2016921日発売)「献杯」(17621日発売)、アルバム「オイビト」(171213日発売)に続く新しい作品を作って、「永井龍雲・負け犬が勝つとき」に新しいチャレンジをしてみたい。応援のほどよろしくお願いします。

富澤一誠

1951年、長野県須坂市生まれ。70年、東大文Ⅲ入学。71年、在学中に音楽雑誌への投稿を機に音楽評論家として活動開始し、Jポップ専門の評論家として50年のキャリアを持つ。レコード大賞審査員、同アルバム賞委員長、同常任実行委員、日本作詩大賞審査委員長を歴任し、現在尚美学園大学副学長及び尚美ミュージックカレッジ専門学校客員教授なども務めている。また「わかり易いキャッチコピーを駆使して音楽を語る音楽評論家」としてラジオ・パーソナリティー、テレビ・コメンテーターとしても活躍中。現在FM NACK5〈Age Free Music!〉(毎週木曜日24時から25時オンエア)、InterFM〈富澤一誠のAge Free Music~大人の音楽〉(毎月最終水曜日25時から26時オンエア)パーソナリティー。また「松山千春・さすらいの青春」「さだまさし・終りなき夢」「俺の井上陽水」「フォーク名曲事典300曲」「『こころの旅』を歌いながら」「私の青春四小節~音楽を熱く語る!」など著書多数。

俺が言う!by富澤一誠

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