<PR>
SMART USENの「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」、第38回のゲストはサポートサーフェスの研壁宣男さん!



――1980年代当時にあてもなく海外に出て武者修行って、なかなかの勇気ですよね?

研壁宣男「当時同じような境遇で海外に行った若者は少なくなかったと思います。アプローチというか、やり方は人それぞれですけど、友達とか同期にも何人かいましたし」

――めずらしくはなかったと?

研壁「はい。たとえば……インドあたりからヨーロッパまで放浪してシベリア鉄道でまた戻ってきたっていう冒険家みたいな友達もいましたし、海外に行けば何かが掴めるような気がしていましたね。ほら、景気が上向きだったというのもあって、行動を起こせばプラスになる雰囲気があったんです」

久保雅裕「バブルに向かおうとしている時代ですからね」

研壁「ちょうどDCブランドブームの絶頂期でしたし」



久保「しかし学校も、文化服装学院ではなく、桑沢デザイン研究所を選ぶあたり、その時点である種オルタナティブですよね」

研壁「桑沢は、総合デザイン学校なので、デザインの枠のなかでのファッションというスタンスだったんです。同期にはプロダクトデザイン、スペースデザインの吉岡徳仁などもいましたね。彼と出会ったのは高3のときですが」

久保雅裕「地元がいっしょだったんですか?」

研壁「いや、彼は佐賀で、僕は岐阜ですが、高3のときに美術系大学の予備校に通っていたわけですが、僕らは地元が田舎なので、予備校が下宿を斡旋してくれるんですよ。で、下宿の部屋が隣同士だったんです。そうやってよく顔を合わせるうちに“どこ受験するの?俺は桑沢だけど”、“あ、俺も桑沢受けるよ”って話をするようになって。結局いっしょに受験に行ったり……」



――卒業後も、パリじゃなくてイタリアに渡って、さらに門を叩いた先が、アルマーニやヴェルサーチではなく、ロメオ・ジリというのもオルタナティブな印象です。

研壁「当時、ロメオは、時代の最先端な感じがして輝いていたんです。それまでのイタリア人デザイナーのスタイルとは全く違う雰囲気がありましたし、たぶん同業のデザイナーには彼の創り出す世界観に“やられた!”って感じた人が多かったんじゃないかな。僕を含めて世界中から門を叩く若者は多かったですよ。たとえば、同世代ではイギリスから来たアレキサンダー・マックイーンが同僚でした」

――留学先のペルージャは、サッカーの中田英寿さんのセリエA時代に日本でも知られるようになりましたが、なぜペルージャだったんでしょう?

研壁「ミラノとかフィレンツェみたいな大都市にある日本語学校に比べると学費が大幅に安かったんですよ。住むところも、割高な1人部屋のアパートメントを借りる事が出来ましたし。ふつう、学生は部屋をシェアする事が多いんですけど」



――そんな海外経験を経て、やがてご自身のブランドを立ち上げるわけですが、サポートサーフェスというブランド名の由来は?

研壁「まず、立体でものを作るときの考え方って――服を作るときもそうですが――固定観念化されてしまっていて、こう、前身頃があって、後ろ身頃があって、袖があります……というのが基本的な構造なんですね。それを一回ゼロにして、ひとつの布の繋がりのなかで服を作れないかなってずっと思ってたんです。で、服と人体、つまり表面とそれを支える構造物っていう関係性を再構築してみようという考えがスタートですね。つまり、表面=サーフェス、支える=サポート……support surfaceって英語で綴って、最初のふた文字をとると、su、suになるじゃないですか。僕は研壁なので、やっぱり最初のふた文字はsuだし(笑)」

――なるほど(笑)。いや、サポートとサーフェス、どちらの言葉もさまざまな解釈ができるので、これは研壁さん自身にぜひ解説していただくべきだと思ったので。

研壁「うちの会社でも本当の意味を理解していない社員がいるかもしれませんね。このインタビューを読んで“へー!”って言ってるかも(笑)。サポートサーフェスって名前は学生時代になんとなく思いついたんですけど、ブランドを立ち上げるにあたって、ようやくその名前を使うレベルに達したんだという思いもありましたし。デザイナーって20歳そこそこでデビューしてしまう人もいれば、30歳過ぎてという人もいますけど、自分にとっては35歳くらいまでは修業期間だったような気がしています。僕は1999年にブランドを立ち上げたんですが、そういった意味では、自分にとってジャスト・モーメントのタイミングでブランドを始めることができたと感じています」



――デビューして20年というタイミングですが、これまでを振り返ってみて、仕事に向かう姿勢は変化しましたか?あるいは変わっていない?

研壁「仕事の方法は変わっていないと思います。ただ、仕事を積み重ねていくうちに習得する仕事のコツで仕事をこなしていくことはできるだけ避けたいと思っています。コツは敵ですね。コンテンポラリーであり続けるということは、第三者の目には、変わっていないように見えても、時代とともに呼吸のように変わっていなければいけない部分があると思うのです。毎回進化していることが伝わらないといけない。コツで仕事をこなしていく習慣をつけると、コツは慢性を引き込み、時代遅れになってしまうから」



――では進化し続けるために必要なマインド、あるいはフィロソフィーとは?

研壁「僕が思うに、素材、縫製仕様、または商品の生産数が多くて、クオリティの面でこだわったプロダクトはデザイナー本人が思うよりもコスト的にターゲットが10から15歳くらい上の客層にシフトしてしまうんですね。たとえば20代の人に向けて作ったはずのテイストの服が、20代の人には手が出ないプライスになってしまう。じゃあ実際に買う人は誰なんだ?ってことになるわけです。つまりテイストと値段のバランスが合わないプロダクトになってしまうのです。テイストとクオリティ、そして価格のバランスは若い頃からいつも念頭に置いて仕事に臨むようにしています」

――すごく腑に落ちたというか、わかりやすいロジックですね。

研壁「ただ、デザイナーの成長にあわせて――歳をとるという言い方でもいいですが――顧客も相対的に歳をとるわけじゃないですか。それが怖さでもあるので。僕が思うに、デパートなんかに行くとわかりやすいですけど、年齢層でフロアが分かれているところがありますが、そうじゃなくて、音楽みたいにジャンル、テイストで感じていただきたいですね。デザインするときにターゲットの年齢層は全く考えていません。何歳の女性が着用してもそれなりの品格のある形を提供しているという自負はあります。商品のコスト的に実売層が40代、50代だったとしても、その世代の女性が身に付けたときにしゃきっとしてモダンに、より若々しく見える服……逆にそれを見た若い世代が“いつかああいう女性になりたい”って憧れる服、背伸びしてまでも購入したいと思える服……そうやってクロスオーバーする層を狙ってます。僕はそのニュアンスを透明感という言葉でぼやかしているんですけど(笑)。大人の女性に似合うことは大前提で、でも若々しく、ということですね。ただ若々しいって18歳に見えるということではなくて、女性がいちばん生き生きとして見えるっていうのが目指しているテイストです」

――そういう微妙なバランス感というのは経験のなかで導き出されるものですか?

研壁「たぶん。あとは技巧的な部分でいうと、見えないところに凝るようになってきています。10本の線で表現していたところを、削ぎ落して、1本の線で表現するみたいな感覚。また、ショーで見せるということとは違う視点で、実際に身に付けた人が体感できるデザインクオリティ、リピートしたくなるデザインはどういうものか?といったことをより深く考えるようになっています。いまは安価で表面的にはモードな服たくさんがあるので、そういった服との違いを明確にできる商品を提案し続けなければいけません」



――さきほど番組のなかで、ファッション好きな人たちが、手の込んだもの、スピリットが込められたものを求める傾向があると言っていましたが、それを実感したのはどんなときでしょうか?

研壁「お客さんと接しているときですかね。あと時代の雰囲気。たとえばテンションを上げたいときに着る服、そういうメンタルに折り合いのつく服がなかなか見つからないというような言葉を耳にします。客観的に見ても、大量生産品の似たようなおしゃれな服が市場に氾濫し、迷わしいと感じます。購入の決定打がコストだったり……そうなってくるとミディアムクオリティの価格競争ですね。ビジネスとしてのマーケティングによって計算された大衆狙いの商品よりも、ひょっとしたらたったひとりのために作られた商品の持つ面白みや意外性の方がより多くの人の心を引きつけるパワーがあるのではないでしょうか?“あなただけのために作りました”っていう媚びない作者の気持ち、スピリットがわかりやすく人の心に響く時代だと思います。まあ、僕の勝手なイメージなんですけど(笑)。だから、こう、ストイックに入り込んでもの作りをしている人にとっては逆にチャンスがあるような気がします」

久保「やっぱり、そういうマスじゃない部分、“あなただけのために”っていう発想がオルタナティブですよね」

(終わり)

取材協力/株式会社サポートサーフェス、株式会社SUNデザイン研究所
取材・文/高橋 豊(encore)
写真/いのうえようへい



■研壁宣男(すりかべ のりお)
1988年、桑沢デザイン研究所卒業。90年、ロメオ・ジリ社アシスタントデザイナーに。その後アルベルト・ビアーニ、トラサルディ、インコテックス等のデザインを手掛け、99年、SUPPORT SURFACEを始動。2006年、東京コレクションに参加、翌2007年、株式会社サポートサーフェスを設立。

■久保雅裕(くぼ まさひろ)
ウェブサイト「Journal Cubocci(ジュルナル・クボッチ)」編集長。杉野服飾大学特任教授。繊研新聞社在籍時にフリーペーパー「senken h(センケン アッシュ)」を創刊。同誌編集長、パリ支局長などを歴任し、現在はフリージャーナリスト。コンサルティング、マーケティングも手掛ける。



■第38回のゲストはサポートサーフェスの研壁宣男さん!







SMART USENの「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」、第38回のゲストはサポートサーフェスの研壁宣男さん!





アプリのダウンロードはこちらから

Get it on Google Play
Get it on Google Play
一覧へ戻る