2008年に河出書房新社から『ジャズ喫茶リアル・ヒストリー』という本を出版しました。この本はタイトルからもわかるように、日本にしかない特殊な音楽空間であるジャズ喫茶の歴史を、私自身のジャズ喫茶体験を含め、戦前から現在まで語ったものです。今回はそのジャズ喫茶の歴史を音でたどってみました。

意外なことにジャズ喫茶は戦前から既にあって、その情報伝達スピードは驚くほど速い。ルイ・アームストロングやデューク・エリントンのSPアルバムは発売から1年もしないうちに日本のジャズ喫茶で聴けたという。現在でも録音されてから発売まで1年ぐらいタイムラグのあるCDは珍しくないのだから、これは注目に値する。昭和のジャズファンはルイ・アームストロングの「ホット5・ホット7」の演奏や、エリントン・バンドのサウンドをほぼリアルタイムで聴いていたのだ。

ところが第2次世界大戦が始まると、敵国であるアメリカのレコードは輸入が止まり、ちょうどその時期に起こったチャーリー・パーカーらによる“ビ・バップ”が日本に伝わったのは戦後のことだった。だからここでご紹介したチャーリー・クリスチャンの『ミントンズ・ハウス』のセッションやパーカーのアルバムは、同時代には聴くことができなかった。そのため日本のジャズマンは、戦後再開されたジャズ喫茶でこの新しいジャズスタイルを研究したという。1954年に横浜のジャズクラブ『モカンボ』で行われた守安祥太郎らによるジャム・セッションは、ようやく日本人ジャズマンがアメリカの動向に追いついた様子を記録している。

とはいえ、一般の人たちにまで広く“モダンジャズ”が知れ渡ったのはもっと遅く、1961年のアート・ブレイキー率いる“ジャズ・メッセンジャーズ”来日まで待たなければならなかった。しかし彼らの演奏は日本に“ファンキージャズ・ブーム”をもたらすと同時に、全国にジャズ喫茶が開店するきっかけとなった。戦後のジャズ喫茶を代表する新宿『DIG』は、メッセンジャーズ来日に刺激されて作られたという。

当時のジャズ喫茶でもっとも流行ったのがソニー・クラークの『クール・ストラッティン』であり、マル・ウオルドロンの『レフト・アローン』だった。そしてこうしたオーソドックスなハードバップとともに、60年代ジャズ喫茶を象徴するのがジョン・コルトレーンによるハードな演奏だ。当時、都内だけでも100軒近くあったジャズ喫茶では、連日コルトレーンのアルバムがターンテーブルの上に乗っていたものだ。

こうした動きに変化をもたらしたのがマイルス・デイヴィスによる“エレクトリック・ジャズ”で、1969年に発表された『ビッチェス・ブリュー』は、ジャズファンの間でジャズかロックかという大論争を巻き起こした。しかし70年代に入るとジャズ・シーンはマイルスの撒いた種によって大きく変化し、チック・コリア、ウエイン・ショーターといったマイルスのサイドマンたちがジャズ・シーンの主導権を握るようになる。

そして1971年録音の『ウエザーリポート』、72年の『リターン・トゥ・フォエヴァー』はジャズ・シーンのみならず、ジャズ喫茶自体の変質をもたらした。聴衆の層が変化したのである。特にキース・ジャレットの大ヒット・アルバム『ケルン・コンサート』は、60年代ジャズ喫茶の主流だったサヨク青年たちとはまったく異なった、若い女性ファンから圧倒的に支持されたのだった。

文/後藤雅洋(ジャズ喫茶いーぐる)

USEN音楽配信サービス 「ジャズ喫茶いーぐる (後藤雅洋)(D51)」

東京・四谷にある老舗ジャズ喫茶いーぐるのスピーカーから流れる音をそのままに、店主でありジャズ評論家としても著名な後藤雅洋自身が選ぶ硬派なジャズをお届けしているUSENの音楽配信サービス「ジャズ喫茶いーぐる (後藤雅洋)(D51)」。毎夜22:00~24:00のコーナー「ジャズ喫茶いーぐるのジャズ入門」は、ビギナーからマニアまでが楽しめるテーマ設定でジャズの魅力をお届けしている。

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