山川豊「兄貴」インタビュー
――今年の初めに肺がんであることを公表されていましたが、9月にはステージ4との報道があって驚きました。
「ずっと伏せておこうと思っていたんですけど、取材を受けると必ず状況を訊かれるので、隠してはおけないと思って話すことにしたんです。ただ、そういう記事が出たのが「兄貴」発売の直前というタイミングだったから、話題づくりなんじゃないかと勘ぐった人もいたみたいで、これには参りましたけど、受け止め方は人ぞれぞれだから仕方ないですよね。でも、それ以上に励ましや応援の声をたくさんいただいていて、本当にありがたいと思っています」
――「兄貴」は8年前、デビュー35周年の頃に作られていたそうですね?
「若い頃からの兄貴への感謝もあるし、そういう気持ちを歌にしたいと思っていて、作詞を荒木先生にお願いしたんです(作曲は杉本眞人、編曲は矢野立美)。歌詞に描かれているのは僕の兄貴・鳥羽一郎のイメージですけど、世の中に兄弟がいる人は多いから共感してくれる人は沢山いると思うんです。そういう意味ではみんなの歌なんだけど、演歌・歌謡曲の世界でこの歌を歌えるのは僕だけだと思うので、大切にしていきたい。そして今の時代、もっと家族の縁とか絆というものを大事にするべきなんじゃないかと思うので、そういう気持ちが届いたら嬉しいですよね」
――「兄貴」への共感の声が寄せられるのと同じように、がんやその他の病気と闘っている方々からのメッセージも多いとか。
「そうなんですよ、同じがん患者同士だと“がん友”なんて言葉があって、情報交換なんかしたりね。みんな負けずに頑張っているから、僕も公表してしまった以上、弱い姿は見せられないし、見せたくありませんから、そういうメッセージやアドバイスにも力をもらいながら、なんとか前に進んでます」
――抗がん剤の副作用が大変だとか。
「口内炎が痛くてね、水を飲むのも辛いくらい。それでも食事をしないわけにはいかないから、ホントに頑張って食べて。味覚にも影響が出ていて、いつも口の中がしょっぱく感じるようになっていたり。あとはお腹が下ります。それから爪の下の肉が盛り上がって露出しちゃうんですよね。これがどこかに触れたりすると飛び上がるくらい痛い。と、まぁ、いろいろあるんですけど、それぞれの症状と上手く付き合っていくしかないんですよね。病院の先生にも”がんとは共存していくしかない”と言われてますしね」
――「岩佐美咲・はやぶさの同期deどーよ」に出演されて、そこで岩佐さん、はやぶさのお二人も、ステージ4とは思えないくらい元気に見えるとおっしゃっていましたが、実際はかなり大変な想いをされているんですね。
「いや、でも、僕よりもっと大変な想いをしながら病気と闘っている人が沢山いますからね。がんだとわかった頃は”どうして俺が !?"なんて思うことが多かったけど、病気はいつ誰のところにやって来るかわからないし、それで苦しんでいる人や回復に向けて頑張っている人は、自分が知らないだけで本当に沢山いるので、自分だけが大変なわけじゃないんだからと考えるようになりました」
――病気が発覚してから2ヵ月くらいは前向きな気持ちになれなかったということでしたが……
「そうでしたね、さっきも言いましたけど、どうして自分なんだ!?という恨めしい気持ちになったり、あとはもう絶望ですよね。先のことが考えられなくなってしまって。でも、病院で話を聞いたり、兄貴に励ましてもらったりしながら徐々に前に進む気持ちを取り戻していって、あとはYouTube。今は探すといろいろな情報を見つけられて、いいことばっかりじゃありませんけど、役に立つことや気持ちが楽になるようなこともあるので。それとやっぱり“がん友”ですよ。中でも桑マン(桑野信義。ラッツ&スターのメンバーで2020年、大腸がんの宣告を受け、翌年2月に手術を受けた)に紹介された本は役に立ちましたね。がんの手術をしていたお医者さんが自分もがんにかかってしまって、その体験や気持ちを書いているんだけど、その中に、病気になってもならなくても人はみんないずれ旅立つんだというようなことが書かれていて、それを読んだ時に何か心が軽くなるのを感じたんですよね。どんな時だって気の持ちようというのが大切ですけど、気持ちを変えてくれる言葉の力というのも大きいですよね」
――“言葉の力”と言えば、病気のことを打ち明けた時に鳥羽(一郎。実兄)さんが「他のことは全て俺に任せて、お前は治療に専念しろ」と言ってくれたことにも救われたとおっしゃっていましたが。
「僕が行けなくなった仕事の穴を、ギャラのことなんか気にするなと言って埋めてくれたりもして、“ああ、やっぱり兄貴はこういう人なんだよな”としみじみ思いました」
――山川さんは鳥羽さんのことを小さい頃から“兄貴”と呼んでいらっしゃったんですか?
「僕の地元、三重県鳥羽市あたりでは長男のことを“坊”って言うものですから、僕も上京するまでは“坊”って呼んでました。漁師町はのんびりしていられない仕事の人たちばかりだから、短くて済むような言葉が多い“浜弁”っていう独特の方言があったんですよ。よその人が聞いたら荒っぽくて驚くだろうと思いますけど」
――鳥羽さんは、17歳から5年間、遠洋漁業の船に乗っていらっしゃったので、そうした土地の方というイメージに結び付くところがありますが、山川さんにはそんな印象がありません。
「やっぱりデビュー前に、歌のコブシを取られたりして、イメージを変えられましたからね。僕は歌手になろうと思ったきっかけが五木ひろしさんでしたから、真似をして細かいコブシを回しながら歌っていたんだけど、担当ディレクターがクラシックを勉強した人で、そういうコブシを音楽的に必要ないからって言って全部取られちゃったんですよ。それで出来上がったイメージで付いたのが“ミスター演歌”っていうキャッチフレーズですよ。兄貴は“潮の香りが似合う男”ですから、それは全然違いますよね。ただ、そういう違いがあったから僕は今までやって来られたんですよ」
――個性が大切ということですね。
「長良会長(1981年のデビューから2020年末まで在籍した長良プロダクションの長良じゅん氏。故人)には、五木さんの歌は聴くな、歌うなと言われてました、好きなので似てしまうから。五木さんに似せても勝てるわけがないんだからって」
――そうしたこともあって、現在につながる都会的でスマートなイメージが出来たんでしょうが、地元にいらっしゃる頃の山川さんはどんな少年だったんでしょう?
「隠れワルかな(笑)。歌手になりたいという気持ちはありながら、なれないだろうと思ってるし、どうすればなれるかもわからない。だから胸の中にはいつも悶々としたものがあったと思うんですよ。そういうことで決して優等生ではなかったですね。家が裕福じゃなかったから、そんな僕たちを学校に通わせるために長男である兄貴が船で働いてくれたんだけど、歌が好きで歌手になりたい気持ちは兄貴の方が強かったから、僕が先にデビューしてしまった時は相当悔しかっただろうと思いますよ。それで何度か僕を訪ねてきて、ある時に“船村(徹。鳥羽の師匠である作曲家。2017年没)先生の住所を調べてくれ”なんて言って。兄貴は船村先生の作品が大好きだったから、先生に弟子入りして歌手になりたかったんですね。それで調べたら先生は当時「ドキュメント女ののど自慢」という番組に毎週審査員として出演されていて、前日の夜は必ず都内のホテルに入って、ホテル内の寿司屋にいらっしゃるということがわかったんです。そして兄貴は水曜の夜にいきなりその寿司屋を訪ねるんだけど、普通なら相手にされるはずもないところが先生に目を掛けられて、次の日には運転手として千葉県のゴルフ場に同行して、弟子入りしてしまったんです」
――もし先に山川さんがデビューしていなかったら、当時船員をしていた鳥羽さんの歌手になりたいという想いが再燃することもなく、つまり鳥羽一郎さんという歌手も生まれていなかったかも知れない?
「そうでしょうね、たぶん。あと、一度だけ先生と些細なことで揉めて、腹を立てた兄貴がもうやめるって言って来たことがあったのをなだめて帰したことがあるんですよ。あれも僕が戻るように言わなかったら兄貴は本当に歌をやめていたかも知れない」
――「兄貴」を聴いても、話を伺っても、山川さんにとって鳥羽さんという人がいかに大きく大切な存在であるかわかりますが、鳥羽さんにとっても山川さんはいなくてはならない人だったんですね。
「やっぱり兄弟ですからね。そうは言っても以前はレコード会社が違うから、ライバル的な意識が本人たちにもファンやスタッフにもあって、けっこう見えないところで競争しているような感じがあったと思います。それが僕が60歳になった頃からですかね、薄れていって、腹を割って話したり付き合ったりできるようになってきましたね」
――そして現在は同じ日本クラウンの所属ということもあって、12月4日にはお二人のデュエット曲「俺たちの子守唄」が発売されます。
「兄貴の長男の竜蔵くんが詞と曲を書いてくれたんですけど、やっぱり1998年生まれの若い人が作った歌だから、僕ら世代からすると、音楽的に新しくてちょっと難しいところもあるんですよ。二人の掛け合いが続いて、どちらかが少しでもずれたらメチャクチャになっちゃうようなところもあって。でも、それだけに刺激的なレコーディングになりました」
――「兄貴」「俺たちの子守唄」の発売、音楽番組への出演など従来のような活動が戻ってきた中で、ファンと触れ合えるイベントも積極的に開いていかれるようですね。
「以前はファンクラブの皆さんを対象にホテルの宴会場でやっていたんですけど、10月には都内のライブレストランでディナーショーを開きます。席は多くないんだけど、そういう身近に感じてもらえる場所で歌って、今の気持ちとか感謝を伝えたいと思って。本当は2月にみんなで旅行に行く予定だったんだけど、それも中止になってしまって、ファンの皆さんには本当に迷惑を掛けてるから、少しずつでもお返ししていきたいと思ってます」
――それはファンの皆さんには嬉しい企画ですね。
「そんなことを言っちゃいけないってよく言われるんですけど、自分としては、いつまで歌っていられるかわからないという気持ちもあって、1年後に歌っていられたら、また1年歌えたから、もう1年頑張ろうというような、そんな感覚です。だから覚悟を持って悔いのないように歌っていきたい」
――とても前向きに、力強く進んでいらっしゃるようにお見受けしますが、心中には様々な想いを抱えていらっしゃるんですね。
「なるべく表に出さないようにしてますけど。それはいろいろありますよ。頭痛がしたり、背中が痛いと感じたりしたら転移じゃないか?って思うし。だから定期検査で“現状維持”って結果を聞くと本当に安心します。覚悟はしていますけど、それでも日々不安との闘いだというのが本音です。でも、だからこそ以前よりももっと1回1回のステージ、一曲一曲を大切にしたいという気持ちが強くなってますね。岩佐美咲ちゃんやはやぶさの二人も一緒で都内23区を1年に1ヵ所ずつ回ってきた「夜桜演歌まつり」も残すところあと2ヵ所なんですよ。途中コロナ禍で3年休みがありましたけど、天国の長良会長に“お前たち中途半端だな”なんて言われないように完走したいと思いますし、大袈裟かも知れませんけど、命を込めて歌っていきたいと今はそういう気持ちでいます。
――ファンのため、歌謡界のために、末永く活躍されることを願っています。ありがとうございました。
山川「こちらこそ、ありがとうございました」
(おわり)
取材・文/永井 淳
山川豊 バースデーディナーショー 2024――ライブレポート
インタビューの中で山川が、都内のライブレストランで開くと言っているディナーショーが、10月19日に東京「俺のフレンチ グランメゾン 大手町」にて開催された。ここではその日の模様をレポートする。
客席はこの日を心待ちにしていたファン――中には三重から駆け付けた山川の姉や妹、親友ほかの姿も――で埋まり、開演前から大変な熱気。その盛り上がりはディナーショーと言うより大宴会。会場のいたる所に笑顔の花が咲き、ペンライトが揺れ、山川と共に歌う声が聞こえる。
4人のミュージシャンの演奏に支えられてステージに上がった山川の歌声は、闘病中とは思えないほど力強くしっかりとしたもの。ファンからの声援や拍手に「みんなに元気をもらいました。頑張りますよ!!」と応えた山川は、予定の曲数より多い全18曲を熱唱。洗練された印象ただよう山川豊ならではの歌の世界へファンを誘い魅了した。夢と希望の光でこの世を照らすため、スターにはいつまでも輝いてほしいと心から思う一夜だった。
(おわり)
取材・文/永井 淳
山川豊 バースデーディナーショー 2024SET LIST
1. 函館本線
2. 途中下車
3. わかれ雪
4. 愛待草より
5. 優しい女に会いたい夜は
6. 霧の摩周湖
7. さだめ川
8. 都の雨に
9. 暖簾
10.しぐれ川
・恋のまよい道(ゆかり&さくま)
・愛し過ぎて(江南しのぶ)
11. 兄貴
12. 人生苦労坂
13. 螢子
14. 雨物語
15. 逢えてよかった
16. 泣かないで
17. アメリカ橋
EN. 春から夏へと
岩佐美咲、はやぶさ「同期deどーよ!」by USENMEDIA INFO
USENのC42チャンネル「元気はつらつ歌謡曲」で、岩佐美咲、はやぶさのヒカルとヤマトがお送りするオリジナル番組「同期deどーよ!」は隔週月曜日更新。11月25日(月)~12月1日(日)の「同期deどーよ!」。ゲストは山川豊!