――初めに松尾芸能賞特別賞の受賞おめでとうございます。

「ありがとうございます。予期せぬことでしたのでびっくりしましたけど、55周年のスタートというところでいただいた賞なので、“この1年頑張りなさい”と背中を押していただいたような、そんな気持ちがして、とてもうれしかったです。大賞の中村時蔵さんをはじめ各界のお歴々の方々と一緒にいただけたこともとても光栄でした」

――55周年を記念して発売された3枚組の『由紀さおりベストオブベスト~ 55th anniversary』には数々のヒット曲とともに、実に多彩な作品が収録されていて、由紀さんがまさに日本の歌謡曲と共に歩んで来られたことを実感できました。

「そんな風に言っていただけるとうれしいですけど、それは私自身がそういう活動をしようと思ってきた結果というよりは、作家の先生方やスタッフの才能や感性に導かれたり後押しされたりしてきたものですね。デビュー曲の「夜明けのスキャット」からしてそうでしたから」

――そういえば、あの曲は元々はスキャット部分しかなかったそうですね。

「そうです。ラジオの深夜番組「夜のバラード」のオープニング用に作られた曲で、歌詞はなくて作曲されたいずみたく先生から“好きな言葉を載せて歌ってみてほしい”って言われてルルル♪とかラララ♪だけで歌ったものだったんです。当時、私たちは“ボーカリーズ”って呼んでいたんですけど、クロード・ルルーシュ監督の映画『男と女』やテレビ番組の「11PM」のテーマ曲のように歌詞がなくて“シャバダバ……”なんて言葉で歌われるものがひとつの流行としてあったんですね。ですから私も特に抵抗もなくルルル♪で吹き込んだんです。3回くらい歌ったところで“いいんじゃない?”ってOKが出て、とてもあっさりと出来上がったんですけど、それが放送されるようになったらリスナーの方から“何ていう映画の曲なのか?”とか“歌っているのは誰ですか?”なんていう問い合わせがたくさん届くようになって。それを聞いたいずみたく先生が“レコードにしたら売れるんじゃない?”っておっしゃったところから歌詞が付いて曲が出来上がって。先生はいくつかのレコード会社に持ち込まれたんですけど、どこも受け付けてくれなかったそうで、そんな中で唯一企画に乗ってくれたのが「帰って来たヨッパライ」をヒットさせていた東芝音楽工業(後の東芝EMI。現ユニバーサルミュージック)の高嶋弘之さんでした」

――東芝以外が受け付けなかったのは、スキャットで始まる構成が、当時としては斬新過ぎたということだったんですね。

「そうですね。いずみ先生はCMソングのお仕事もたくさんされていたんですが、CMソングには時代の先端を行く感覚があったんですね。そして、そういう先生の感覚に共鳴したのが「帰って来たヨッパライ」を発売する柔軟さを持っていた東芝だったんです。「夜明けのスキャット」は結果的にヒットしましたから、よそのレコード会社の方で「こんなのダメだよ」なんてけちょんけちょんに言っていらっしゃった方が、その後私と顔が合うとばつが悪そうにされていたなんていうことが何度もありましたね(笑)」

――由紀さんには少女時代に童謡歌手としての経験がありますが、どのような経緯で歌謡曲を歌うようになったのか、さらに遡ってどのようなご家庭で育たれたのか伺えますか。

「まず家庭は至って普通でした。父は会社員で母は専業主婦。兄と姉がいて、母はいつも子供たちに“あなたは何がしたいの?”って訊いてくれるような人でした。そして私たちの望みがわかると“できるところまでは応援するから、あとは自分で頑張りなさい”って協力したり応援したりしてくれましたね。そういう中で小学生の時に姉が“ひばり児童合唱団”に入るんですけど、母は姉を送り迎えするので、私を一人で家に置いておくわけにもいかず、私も連れて行っていたことから私も合唱団に入ることになったんです。姉はソプラノのきれいな声で小さい時から声がいい、歌が上手いってみんなに褒められていて、妹の私はどうだったかって言うと“章子(由紀の本名)ちゃんの歌には味がある”なんて、なんだか苦しまぎれの誉め言葉をもらったり(笑)。姉は中学の時には音大に進むことを決めていて、両親もそのつもりで応援していて、私はそういう姉を見て、同じクラシックの道に進んでも姉を超えられないことがわかっていたので、歌謡曲とか和製ポップスの歌い手になりたいって思ってました」

――お姉さんの安田祥子さんが合唱団に入られたことをきっかけに、由紀さんも才能を認められて童謡歌手として活動するようになったということですね。

「認められてと言われても、私には超えられない姉という存在がありましたから、常にコンプレックスを抱えていたんですけどね」

――その後、童謡歌手として所属していた日本コロムビアからキングレコードに移籍されました。

「コロムビアではそのまま活動を続けてほしいと言ってくださっていたんですが、私は童謡歌手として歌い続けるのではなく、大人になったら大人の歌をうたいたいと思っていたので、そう伝えたところ移籍することになりました。キングではディレクターからジャズを習うように言われて、当時は中学3年生でしたけど、学校が終わったら制服のままで先生の所へ行って何ヵ月かジャズを覚えました。そうしたらある日、先生に“これ以上、僕の所に通っても上手くはならないよ。やっぱり、お客さんの前で歌わないと。もし、そういう場所で歌おうと思うなら紹介してあげるから”って言われたんです。それで通うようになったのが銀座の“モンテカルロ”っていうキャバレーでした」

――当時まだ十代ですよね。一人でキャバレーで歌うことに抵抗はありませんでしたか?

「ありましたよ。いつもその場でバンマスから指示を受けて歌うので、毎回がぶっつけ本番。それがとても怖かったです。それから怖かったことは他にもあって、夜の8時前にはお店を出て帰るんですけど、そういう場所ですから酔ったおじさんに、声を掛けられたこともあるんです。私はまだ子供ですから怖くて泣きながら帰ったら母には“あなたに隙があるからだ”って言われて。それでも次からは母が迎えに来てくれるようになったんですけど、母が店の前で私を待っていたらホステスの面接希望と間違われたなんていう笑い話もありました(笑)。それが1年くらいかな、続いたところでNHK「おかあさんといっしょ」の歌のお姉さんのオーディションに受かって、キャバレーでの修業は終わって、「おかあさんといっしょ」で音楽を担当なさっていた作曲家の越部信義さんからCMのお仕事をご紹介いただくようになりました」

――1965年に「ヒッチハイク娘」で歌謡曲デビューをされました。

「CMのお仕事をするようになった頃にキングレコードのオーディションに受かったことがきっかけです。でも、その時は全く上手くいかなくて挫折を経験するんです。それで約1年でCMの仕事に戻りました。その頃には歌手としてヒットを目指すような考えはなくて、一人のCMソングの歌い手として活動していましたから、それから先の展開は全く予想もしていなかったことでした。1969年に「夜明けのスキャット」で由紀さおりとしてデビューしましたけど、話題性ということを考えれば、生い立ちやデビューまでの過程がドラマチックであった方がいいわけです。でも、私の場合さっきも言いましたように至って普通の家庭で育ったものですから”話題になるものが何もないね”なんて家族と笑ったのを覚えてます(笑)。ただ、デビューしてからは本当にいろいろありました。結婚そして離婚、大きな病気もしましたし、もちろんうれしいことだっていっぱいありましたけど、この歳になると今度はお世話になった方や好きだった方たちとのお別れが多くなって……」

――そんな現在の心情と新曲の「人生は素晴らしい」には重なるところがあるのでは?

「詞を書いて下さった松井五郎先生がおっしゃったのは“僕は人生という言葉は軽々しく使っていいものだとは思っていないけれど、由紀さんならそろそろこの言葉を歌ってもいいと思った”ということで、まさに私の現在なんですね。「人生は素晴らしい」では“ありがとう”という言葉が何度も歌われるんですけど、それはお別れするのは悲しいけれど、その前に出会いがあっていろいろなものを与えてもらっている、だから“ありがとう”なんですね。人生は素晴らしいけれど、それは私のような年代になると、ただバンザーイ!って喜ぶような素晴らしさではなくて、悲しいこともあるけれど、それでも教えてもらったことや気付かせてもらったことがあって、だから素晴らしいっていうことなんです。これは私自身、55周年の記念コンサートでお客さまの前で歌って初めて感じられたことなんですけど」

――やはり歌はうたうだけではなく、聴いてもらうことが大事?

「その通りですね。私が歌って発したものが、聴いてくださった方から返ってくる。このやりとりの中に歌うことの意味、本質があると思います」

――さて、記念コンサートですが、5月17日と18日にはパリで公演されました。

「そうなんです。パリで歌ってきました。新曲の「人生は素晴らしい」ではフランス人のジオアッキーノ・モリシさんというシンガーソングライターの方に曲を書いていただいたんです」

――そういうことだったんですね。

「けれど、このモリシさんの声がとても素敵なんです。送っていただいたご自身で歌っていらっしゃる音源を繰り返し聴くうちに、私に歌い切れるだろうか?って気持ちも湧いて来たんですけど、坂本昌之さんが素晴らしいアレンジをしてくださって、それでレコーディングには楽しみな気持ちで入ることができました。聴いて下さる皆さんにその時の私の気持ちも伝わったらうれしいですね」

――コンサートでは「人生は素晴らしい」、カップリングの「やさしいさよなら」も披露されるほか、着物でジャズを歌ったり三味線を弾かれたりと豊富な内容が用意されているそうですが?

「サブタイトルを「~新しいわたし~」として新しいチャレンジを見ていただきたいと思ってます。これはせっかく出掛けてきてくださるお客さまに少しでも面白いと感じていただけるようにということで考えたものなんですけど、振り返ってみると私って子供の頃から、お客さまに喜んでもらえることが好きだったんです。姉は自分が習ったことをきちんとできたらそれが一番の喜びみたいな人なんですけど、私はそうじゃなくてお客さまあってこそ。だからこの仕事を55年も続けてこられたのかも知れません」

――三味線を弾きながら歌われるんですね。

「そうなんです。これが難しくて、初めてステージでご覧いただいた時から失敗も重ねてるんですけど、めげないんです、私。記念のコンサートは来年の春まで続く予定なので、後の方になるほど上達している姿をお見せできるのではないかしらと(笑)」

――55周年を迎える方とは思えないくらい、みずみずしい歌声ですが、活動への意欲にも変わるところはないようですね。

「まだまだやりたいことができるんじゃないかしらと感じることもあって、やる気はあるんですけど、気を付けていないと、年齢と共に身体は確実に変化しますから、以前よりもまめに喉のケアをしたり、よい歌をお届けするためにより気を遣ったりするようにはなりました。あとどれくらい残されているかわからない歌い手としての人生ですけれど、与えられた歌をただ歌うようなことはしたくないんです。作品や歌うことを通して学びながら、この年齢の自分には何ができるだろうか?と考えて、トライしていきたいですね。そうすることでまた新しいエネルギーが生まれるように思いますし。そして「人生は素晴らしい」でも夢を見ることが大事だと歌われているんですけど、私も夢を持ってそれを追いながらこれからも頑張っていこうと思っています。そして同世代の方々にも“夢を見ましょう”って伝えていきたいですね。夢は明日への活力源ですから」

(おわり)

取材・文/永井 淳

山口ひろみ&辰巳ゆうと「浪花人情劇場」by USENMEDIA INFO

USENのC42チャンネル「元気はつらつ歌謡曲」で、山口ひろみ&辰巳ゆうとがお送りするオリジナル番組「浪花人情劇場」は隔週月曜日更新。

5月13日(月)から26日(日)まで放送中の「浪花人情劇場」。今回のゲストは由紀さおり。辰巳ゆうとの楽しみな気持ちと緊張感が交差する!

山口ひろみ&辰巳ゆうと「浪花人情劇場」(encore)

由紀さおり「人生は素晴らしい」DISC INFO

2024年4月17日(水)発売
CD/UPCY-5121/1,400円(税込)
Lighthouse Music

由紀さおり『由紀さおりベストオブベスト~55th anniversary』

2024年4月17日(水)発売
SHM-CD/UPCY-7968~7970/5,000円(税込)
Lighthouse Music

関連リンク

一覧へ戻る