片山久美子(かたやま・くみこ) CITYSHOPコンセプター・バイヤー
2015年にベイクルーズに入社し、翌16年から現職。当時も今もハイペースで海外でのバイイングトリップをこなしながらシーズンごとのテーマを打ち出し、オリジナルや別注アイテムの企画も指揮。昨年に独立。ヴィンテージの壺や花器といった服以外のものをキュレーションするプロジェクトを立ち上げ、活動の場をさらに広げている。
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父の背広と母とのスーパーでの買い物の記憶

石田 佇まいがもう素敵!その片山さんがこれまでどのように歩んで来られたのか、今日は伺っていきたいと思います。
久保 よろしくお願いします。ゲストには毎回尋ねているんですけど、まずは生い立ちから伺えますか。これまでだと子供の頃にファッションに興味を持ったという人が多いのですが、片山さんもそういう感じだったのでしょうか。
片山 そうですね。何歳のときという明確な記憶はないんですけど。子供の頃から母の鏡台の中のジュエリーを勝手に着けたりしていました。服に関しては、今の自分のルーツだなと思うことが二つあります。一つは、父の背広です。私はジャケットがすごく好きなんですね。父の背広を洋服箪笥からこっそり取り出して羽織っては、したり顔で鏡の前に立つ。そんなことをしていました。もう一つは、母がきっかけになっています。私は静岡の田舎の出身なんですけど、母が何カ月かに一回、「一つだけ好きなものを買っていいよ」と、スーパーに連れて行ってくれたんですね。衣料品も置いている田舎町のスーパーの品揃えの中から何とかお気に入りを「掘り出す」ことを一生懸命やっていました。今もバイイングのときに掘り出す作業がすごく好きなんですけど、子供の頃にスーパーでやっていたことがルーツなのかもしれません。
久保 お父さんの背広を羽織ったりしていたのは小学生、中学生ぐらいの話?
片山 小学校の高学年でしたね。

久保 その後、中学、高校と進んでいくと、好みが変わったりしませんでしたか。雑誌などの影響を受けて。

片山 私は雑誌でいうと『ジッパー』や『フルーツ』の世代なんです。東京からは近いけど田舎で育って、『フルーツ』に出ているようなファッションで、頑張って原宿に行く。トンチンカンな格好をしていたなあと思います。東京に憧れていたんですね。原宿に行くのは一大イベントなので、夏休みと冬休みにお小遣いを握りしめて友達と「行くぞ!」って言って。青春18きっぷで行っていました(笑)。

石田 収録前の打ち合わせでお話ししていて分かったのですが、片山さんと私は同じ歳なんですよね。高校の頃はミニスカートにルーズソックスが流行っていたけれど、片山さんも履いていたんですか。

片山 履いてはいたんですけど、ギャルのような感じではなくて、モードに憧れる「モードラバー」みたいな部類だったんです。ギャルの道には行かず、モードまっしぐら。そんなだったので、高校を卒業したら絶対に東京に行くっていう選択肢しか無かったんです。

久保 東京への憧れ=ファッションへの憧れ、みたいな。

片山 高校を卒業して大学に進むときには、何かしらの形でファッションの仕事がしたいと思っていました。情報も簡単に得られる時代ではなかったので、雑誌を読み漁ったり、「ファッション通信」でパリコレを観たり。そんな中で、ファッションの仕事をするのならフランス語を喋れるようにならなきゃと、もう3秒ぐらいの思考回路で決めて(笑)。それで仏文学科に進みました。英語で全然大丈夫なんだと知ったのはバイヤーになってから。

久保 服飾の専門学校ではなく大学に進んだ。服作り志望ではなかったということ?

片山 小さな頃から絵が上手とか、クリエイションの欲が湧き上がってくるようなタイプではなく、あるものを眺めて文章にしたり、何かの世界を編集するほうなんだろうなと思っていました。ゼロイチの人間ではないということを悟っていたんだと思います。

久保 一を十にするほうが合っていると。

片山 良く言えば、そっちのほうですね。

石田 ファッションエディターみたいなものを考えていたということですか。

片山 はい。もともとはそちらを志していました。

なぜファッションは大事なのか、その理由が知りたかった

久保 ファッションエディターを目指したのは、さっきも話に出た雑誌の影響?

片山 きっかけは、大学在学中に読んだ雑誌の記事だったんです。アメリカで同時多発テロが起こって、ファッションショーを全てストップしなければいけない状況になった頃のことです。当時の私はショーをやる意味も分からなかったですし、流行が作られていく仕組みも全く知りませんでした。だから単純にショーなんてやらなくていいじゃんって思ったのですが、そういう政治的なことにファッションはどう立ち向かうのかとその記事は問うていて、やる意義はあると書かれていました。その理由を知りたいと思って、ファッションの世界で働こう、ファッションエディターを目指そうと決めたんです。

久保 ファッションに関わる仕事を志した当初から、ファッションの意味を捉え直そうおという思いがあった。

片山 ファッションには素敵とか、可愛いとか、胸が高鳴るといった側面があるけれど、何でそんなに大事なのか。その答えを知りたかったんです。それから20年が経った今、明確になったかと言われると困ってしまうんですけど。答えは一生出ないのかなとも思いつつ、そういう疑問から始まって今に至っています。私には意味を知りたいという欲があるんですよ。卒論では川久保玲さんとシャネルについてフランス語で書いたのですが、女性が女性として独立していく歴史的背景、そこに政治や経済だけではなく服飾が影響しているということに興味があったんです。その源には「意味知りたがり」みたいな、腑に落ちないとなかなか前に進めない偏屈な性質があるのかもしれませんね。

久保 で、フランス語を喋れるようになった片山さんはどうなっていったのでしょう。

片山 結果、アパレルの会社に就職しました。最初の2年間は店頭で販売員を経験したんですけど、その頃にとても良い出会いがあったんですね。まさにバイイングの高みを拝見させていただく機会に恵まれ、私のファッション人生のベースを養うことができました。そのときの経験から、世界の美しいものを集めて編集するバイヤーになりたいと思ったんです。

石田 バイヤーのお仕事の醍醐味とは、どういうところにあるのでしょうか。

片山 人間なので自分の趣味嗜好とか美意識とか、好みはあるんですね。自分の好みとお店のディレクションがイコールの場合はすごくハッピーというか、やりやすいと思うんです。ただ、お仕事なので「お店のお客様はもう少しエレガントだな」とか、お客様の顔を思い浮かべながら仕入れることも大切になります。その違いがイコールになるように頑張って自分のキャリアを積み上げていったという感じでしょうか。そもそも私たちは世界のだいたいのことを知らないんですよ。日本には物が溢れているけれど、世界にはまだ見ぬ美しい物があり、それを創り出している人たちがたくさんいるので、私は世界のどこにでも会いに行きます。それこそ秘境も訪ねたり。様々な土地で自分自身とお店のフィルターを通して、お客様の喜ぶ顔を想像しながら物を集め、編集することで価値を再構築していく。それによってお客様が新たな出会いをしてくださることが醍醐味です。そのために、自分で足を運んで会いに行く。昭和レトロでオールドスクール、バイヤーは「地と汗の職種」なんですけど、体力が削がれていても、お店のお客様やスタッフが喜ぶ顔を見ると全て吹き飛びますね。

苦闘の末、コロナ禍で像を結んだシティショップの在り方

久保 シティショップはベイクルーズの新業態として15年に青山に出店しました。当初はかなり苦労したそうですね。

片山 思い出したくないくらい。1階がデリカテッセンで、2階がファッションで構成されていました。ファッション、フード、カルチャーを提案するコンセプチュアルストアとして出発して、デリカテッセンは大人気だったんですよ。ただ、2階には誰も上がって来なくて……。売り上げもとても厳しい状態で、私は16年にディレクターになったのですが、最初の23年は私自身のディレクター経験も浅く、自分が描くシティショップの世界が不安定で、チームとして同じ景色を見られていませんでした。試行錯誤の連続で、毎シーズン、これが最後だと思ってバイイングをしていました。

石田 お客様を2階に上げるために、どんな工夫をされたのですか。

片山 徐々に、徐々に、やれることからやっていったんです。インスタグラムを毎日、1830分に上げるとか、ディスプレイの考え方や仕方をスタッフが共有するとか、小さな積み重ねです。大きく変化したのはコロナ禍の頃でした。旗艦店を青山から渋谷キャストに移転して新たにスタートし、ルミネ新宿に2号店を出して、関西に進出するタイミングにあった20年にコロナ禍になって。その年の3月にルクアイーレ大阪、4月に京都の藤井大丸に出店する計画だったのですが、大阪は開店できたものの自粛に入り、京都を開けることができたのは予定から2カ月後。その間は都内のお店も営業ができませんでした。

旗艦店のシティショップ渋谷店

久保 営業自粛で大変な時期でしたね。

片山 そのときに、チームのみんなのことをどうやって守るんだろうと思ったんです。それでインスタライブを始めたんですね。「買ってください」と言っているようで恥ずかしくて、私には無理だと思っていたのですが、もはや私の小さなプライドなんかはどうでもよくて。まずは自分自身を変えなければみんなのことを守れないと思い、手探りでインスタライブを始めました。ただ、闇雲に商品を提案しても響かないので、MDも一気に変えたんです。それまではブランドから商品がデリバリーされたタイミングで、お店に行ってディスプレイを変えていました。渋谷店のディスプレイを変えたら、夜中に新宿店に行くといったことを根性論だけでやっていたんです。ただ、関西にも出店して店舗が増えてきて、マンパワーだけでは限界が見えていました。そこで月に2回、日にちを決めて新商品をローンチするようにしたんです。セレクトもオリジナルもローンチ日に合わせてスタイリングを組めるようにしていく。ローンチ前からローンチ日までインスタライブで新商品を紹介し、ローンチ日にはお客様にきちんとお届けするというサイクルを作っていきました。

久保 お客様にもスタッフにも分かりやすくしたんですね。

片山 それによって、お客様には「店に行けばあのアイテムがある」と期待していただけるようになり、スタッフとお客様の間に絆が育まれ、顧客化が進んでいったんです。月2回のローンチなので年間では24回あって大変なんですけど、それを始めてからブランドが安定していきました。チームのみんなが見ている景色が一つだと確信できたのは、シティショップが立ち上がって5年目のことでした。

心から良いと思うものしか置かない、買わない、作らない

久保 チームのみんなが見ている景色が一つになった。片山さんはディレクターとして、シティショップをどんな店にしていこうと思っていたのでしょうか。

片山 シティショップという店名なので、日々忙しなくお仕事や家事、子育てなど働く人たちがお店に行ったら気持ちがちょっと軽くなり、背筋が伸びるようなお店。都市のモードだけどちょっと力をもらえるようなお店を作りたい、という思いを一貫して持っています。

久保 ただ、厳しい状態が続いた。

片山 その一番大きな要因は、私の中で「これがシティショップ」という明確な景色を打ち出せていなかったことだと思っています。シティショップは今も以前も、マスマーケットに向けたゾーニングではありません。だからこそ、私たちのことをすごく好きでいてくださる、愛情の深度が深いお客様が中心なんですね。本来は深く狭くみたいなゾーニングであるべきなのに、私のディレクションがすごくフラジールだったんです。その頃、スタッフに言われた一言が忘れられません。売れたいがために他店でヒットしているアイテムを私なりに解釈して作った商品を投入したんですけど、「片山さんはこれを着るんですか」と言われたんですね。改めてそのアイテムを見て、自分でも「これは着ない」と思った。

久保 グサリときますね。

片山 それで目が覚めて、「自分が心から良いと思うものしか置かない、買わない、作らない」と決めたんです。現在は年間24回、ブランドやアーティストと別注アイテムを作っていて、特に一点物は人気なんですけど、ここでしか買えない価値をお届けすることしか後発セレクトショップが存在する意味はないと思っています。こんな出来事もありました。インスタグラムのDMで遠方のお客様とメッセージをやりとりする機会が増えてきていた頃で、その中にまだお会いしたことのない四国の方からのメッセージがあったんです。病院で働いている方で、シティショップの洋服をオンラインで購入しているとのことでした。「そのお洋服を着て病院に通勤することが今、私を支えています」と綴られていたんですね。感動して、ファッションの仕事を続けていかなければと、思いを新たにしました。続けていくからにはシティショップにしかない価値を培うことを決め、今も探究しています。

石田 最後にこの番組をご覧になっている、これからファッション業界を目指すという方にメッセージをお願いします。

片山 若い方々は今から何にでもなれると思うので、正直、うらやましいです。何でも迷わずやったほうがいい。私は最初に入った会社で32歳のときに研修でアメリカに留学させていただいたのですが、その時期の経験が私の今を作っています。友人関係もそうですし、英語も喋れるようになって、人生が変わりました。海外に行きたいと思ったら行くほうを選んだほうがいいですし、ファッション業界の何かの職種に興味が湧いたらチャレンジしたほうがいい。情報がたくさん取れる時代なので、自分が今、置かれている状況を維持しながらでもできることだと思います。自分の信じた道を歩んでいってほしいです。

石田 あたたかなメッセージをありがとうございます。

久保 本日はありがとうございました。

写真/プラグイン|エディトリアル、遠藤純、ベイクルーズ提供
取材・文/久保雅裕

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久保雅裕(くぼ まさひろ)encoremodeコントリビューティングエディター。ウェブサイト「Journal Cubocci(ジュルナル・クボッチ)」編集長。元杉野服飾大学特任教授。東京ファッションデザイナー協議会 代表理事・議長。繊研新聞社在籍時にフリーペーパー「senken h(センケン アッシュ)」を創刊。同誌編集長、パリ支局長などを歴任し、現在はフリージャーナリスト。コンサルティング、マーケティングも手掛ける。2019年、encoremodeコントリビューティングエディターに就任。

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