「自身の血肉となった先達の音楽に改めて触れ、“温故知新”の精神で多くの事を今一度学ぶとともに、お酒を片手に仲間たちと音を出しながら、新たなる“R60”の扉を開けることが出来れば・・・」
今年2月26日(月)、自身の誕生日当日に「JAZZと歌謡曲とシャンソンの夕べ〜R60」開催の報せとともに発表した桑田佳祐のコメントにこのような一節があった。ご存知の通り、桑田佳祐は歌謡曲やジャズなど、先達が生み出した音楽に大きなリスペクトを抱き歌い継ないでいる音楽人のひとりだ。「ひとり紅白歌合戦」と題した大規模なカバーライブ企画を三度開催し、2016年には『THE ROOTS 〜偉大なる歌謡曲に感謝〜』という映像作品をリリースしたほどである。今回急遽開催されることになったイベントも、同様に素晴らしいものになることは確信していたが、これまでとは明らかに違っていた。上述したコメント通り、そこには先人達が生み出した名曲に学び、そのうえ“新たなる扉”を開いていたのである。円熟した桑田佳祐だけが辿り着くことのできた、目眩(めくるめ)く音楽の恍惚がそこにはあったー。
兵庫県神戸市三ノ宮駅から徒歩3分、繁華街の中に突如現れるクラブ月世界には約150名の観客がグラスを片手に肩を寄せ、テーブルライトを囲んでいる。昭和のキャバレーが時空を超えてきたかのような異質なこの空間。タイム・スリップショーと銘打たれた企画を開催するのにこれほど適した会場はない。ミュージシャンがステージ上に現れると大きな拍手が湧き上がる。ギターの斎藤誠が「本日はようこそ!心の準備はよろしいですか?それではあの不適切極まりない、チョメチョメ男をお呼びいたしましょう!!」と声を上げると、本日の1曲目の演奏がスタート。桑田佳祐が会場に姿を現すと、割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こる。観客とハイタッチをしながら、客席の合間を抜けてステージに上がると越路吹雪の「サン・トワ・マミー」(1964年)を丁寧に歌い上げた。昨年、サザンオールスターズとして開催した「茅ヶ崎ライブ2023」の会場キャパシティは1日1万8千人。普段はドームやスタジアムで数万人を前にライブすることの方が多い桑田佳祐なだけに、歌唱中に手が触れられる距離で、観客とアイコンタクトをとりながらライブをすることは近年ほとんどない。150名という今回のキャパシティは、1987年に桑田佳祐としてのソロ活動を始めて以来行ってきた数々のライブの中でも、最小の動員数になる。超プラチナ・チケットを手にすることのできた観客との逢瀬は、2曲目に披露された笠置シヅ子の「東京ブギウギ」(1948年)で早くも最高潮に。手拍子と共に始まった一流ミュージシャンの演奏と軽やかな桑田の歌が観客の体を揺らし、会場はダンスフロアに早変わり。
2曲歌い終わった桑田が「今日はようこそ、クラブ月世界にお越しくださいました!」と観客に声をかける。あまりに近い距離に観客が興奮するのはもちろん、桑田も客席に体を乗り出し、「ほら、ここシミがあるでしょ」と自身の肌を見せるなど観客の笑いを誘う。リラックスムードで「今日は私の好きな曲を皆さんに聞いていただきたいと思います」と話し、西條八十が作詞、服部良一が作曲した霧島昇の「蘇州夜曲」(1940年)と菅原都々子の「月がとっても青いから」(1955年)を続けて披露。これらはリリースされた時代も違えば曲調もムードも違うが、温かいオリエンタルなメロディーが、そして桑田の歌声が、我々の遺伝子に染み込んでいる日本の原風景を思い起こさせる点で共通していた。2曲続けて歌うことで、桑田が見つけた新たな発見を提示したかったのかもしれない。この企画の真髄が垣間見えた瞬間だった。
「マイナーコードの三拍子を2曲続けてお聴きください」と、松尾和子「再会」(1960年)、日吉ミミ「男と女のお話」(1970年)を披露。照明がステージを赤と紫のムーディーな世界に染め上げ、観客は歌に聴き惚れる。昨今の日本の音楽シーンにはほとんどなくなった三拍子の音楽。特に「再会」は日本が誇る偉大なる作曲家・吉田正が作曲した曲だが、時空を超えた吉田正と桑田佳祐のコラボレーションを目の当たりにし、歌謡曲の奥深さと音楽的練度の高さを改めて思い知らされる。今回のライブの中でいくつか重要な曲があるとすれば、菅原洋一が歌い1965年に発表した「知りたくないの」はその一つに違いない。ドン・ロバートソンが作曲し、ハワード・バーンズが作詞したアメリカのポップミュージック「I Really Don't Want to Know」(1953年)に、なかにし礼が邦題と日本語詞をつけた楽曲だ。アメリカで大ヒットを記録したこの曲は、アメリカにおけるポップスのスタンダードナンバーであり、それを日本語バージョンで歌い継なぎ大ヒットしたという経緯がある。まさに、桑田が今回の企画で表現しようとしている“温故知新”を体現する曲であり、それをさらに2024年に桑田佳祐が歌うことに大きな意味があるのである。脈々と継ながれてきた音楽の歴史を、慈しむように丁寧に歌い上げる桑田の表情が印象的だった。
9曲目に披露した渚ゆう子の「京都慕情」(1970年)では、ダンサーも登場。紙吹雪を自らの扇子で飛ばしながら、情緒豊かに歌う桑田に華を添える。10曲目から12曲目にかける流れは圧巻だった。純和製の音階が妖艶な魅力を放つ美空ひばりの「リンゴ追分」(1952年)。過去何度かこの楽曲を歌ってきている桑田だが、今回のアレンジはこの曲の“新たな扉”を開いてしまった。初めは原曲の世界観通りにゆったりと始まる。曲が進むにつれ、サポートミュージシャンの山本拓夫のサックスが絡み出す。日本最高峰のミュージシャンたちの演奏に酔いしれる間に、気づけば曲がスタンダードジャズに変容しているではないか。日本歌謡曲と欧米生まれのジャズに橋をかけ、自由自在に行き来するアレンジはこのメンバーにしか、そして桑田佳祐の音楽的理解度と編曲家としての随一のセンスがあってこそ。曲が終わると大きな歓声と拍手が鳴り響き、そのままジャズコーナーに突入。「Fly me to the moon」、ナット・キング・コールが歌うことでも有名な「L-O-V-E」と、ジャズのスタンダードナンバーを2曲披露した。歌謡曲とジャズが一つづきにあることを提示し、歌謡曲に秘めた可能性を引き出した美しくも心躍る流れであった。
その後も数々の大名曲を披露。「私にとって青春の肌触りといえばこれ」と前置きして歌ったザ・ピーナッツの「恋のバカンス」(1963年)や堺正章の「さらば恋人」(1971年)、曲のストーリーを桑田自らの脚本で再解釈し、小道具を使い小芝居を挟みながら歌った浅川マキの「かもめ」(1969年)など、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。「デュエットをさせていただきます」と、コーラスのTIGERと二人で加藤登紀子&長谷川きよし「灰色の瞳」(1974年)をデュエットで披露。二人のハーモニーが心地よく会場に鳴り響く。今回のライブのハイライトとなったのは美輪明宏の「ヨイトマケの唄」(1965年)だろう。ピアノと桑田佳祐の歌だけで始まり、歌の物語が進むのと同時にパーカッション、ギター、ベースと徐々に音が厚くなっていく。「土方」や「ヨイトマケ」など差別用語が含まれかつて放送禁止楽曲として民放では放送されることのなかったこの曲だが、戦後から高度経済成長期に入る礎を築いた労働者をその子ども視点で歌った名曲であり、桑田の語りかけるような優しい歌声が観客の心の中に染み込んでいく。歌は世につれ、世は歌につれ。流行歌はいつもその時代の写し鏡であり、この曲に記録されたかつての時代に思いを馳せながら、月世界は深い感動に包まれた。
その後、29年前に起きた阪神・淡路大震災、今年の年初に能登で起きた震災に触れ、今回の企画を開催するにあたり、旧知の中であり、尊敬するミュージシャンの先輩である竹内まりやに連絡をしたことを明かすと、彼女の楽曲「元気を出して」(1988年)を披露。歌には被災地へのエールも込められていた。「もっといけますかー!」という桑田が客席を煽り、続けて披露したのは昨年惜しくも亡くなったKANの普及の名曲「愛は勝つ」。この曲は1990年にリリースされた楽曲だが、今回のセットリストの中で最も新しい時代に生まれた曲であることが驚きだ。時代は昭和に再び戻り、高峰秀子の「銀座カンカン娘」(1949年)、梓みちよ「二人でお酒を」(1974年)、そして本編最後に越路吹雪の「愛の讃歌」(1954年)を、別れを惜しみつつしっとりと歌い上げた。元はシャンソンだったこの曲が最後に来ることで“JAZZと歌謡曲とシャンソンの夕べ”は完成するのである。
鳴り止まないアンコールの拍手に応えて、再び桑田らは登場すると、越路吹雪の「ラストダンスは私に」(1961年)を演奏。本編の始まり、終わり、そしてアンコールの始まりに越路吹雪の楽曲を披露したことになるが、桑田が愛してやまない歌手であることはもちろん、日本歌謡史に欠かせない存在なのである。リラックスして歌唱する桑田から、心から音楽を楽しんでいることがひしひしと伝わってくる。メンバー紹介を挟みつつ、ジュリーこと沢田研二の「君をのせて」、そして最後に尾崎紀世彦の「さよならをもう一度」(1971年)を演奏して、約2時間・合計25曲の極上の音楽タイムスリップ・ショーは幕を閉じた。
グローバル化する世界の中で、日本の音楽シーンも日々急速に変容している。今回の企画で、改めて日本に眠る多くの音楽のポテンシャルの高さを再認識させられたことはもちろん、“歌手・桑田佳祐”がいる限り、先人達が紡いできた歌謡曲は不滅であることを確信した夜だった。桑田は現在、楽曲制作活動の途中であることをラジオで常々話している。次なる桑田の動きに注目だ!!