──今年7 月にドリーミュージックよりシングル「All I Need」をリリースし、メジャーデビューを果たしたMashoeさん。メジャーデビューしてみていかがですか?
「もちろん“おめでとう”という言葉はいろいろな方からもらいましたけど…チームの皆さんがフレキシブルな接し方をしてくださることもあって、自分の感覚はインディーズ時代からあまり変わらないです。作品もずっと一人で作ってきましたし、根本は変わっていないです。ただ、“チームで何かを作れている”という感覚もあるので、そこはメジャーデビューして変わったところかもしれません。自分以外の視点も入ってきますし、“ここはもっとこうしたら?”と気軽に言ってくれる仲間がいる感覚というか…ありがたいですし、すごくワクワクしています」
──単純に仲間が増えたみたいな感覚なんでしょうか?
「そうですね。でも、あまり“ノー”と言わない人たちです。信じてくれているので、新たなくつろぎ場所が増えた感覚です」
──ご自身の気持ちの面では何か変化はありますか? 何か覚悟が決まったりとか。
「“自分1人だけじゃない”という責任は感じるようになりました。自分の結果で、誰かの人生が変わるかもしれないと思うと、“しっかりやらないと“って」
──それこそ仲間が増えたからですね?
「はい、『ONE PIECE』のルフィーみたいな気持ちです。でも一緒に船に乗ってくれたというよりは、僕がいかだを漕いでいたら、突然豪華客船を用意してくれて“こういう船があるけど、どう?”って提案してくれたとような感じだったんです。だから、背負う覚悟はもちろんあるんですけど、“この活動の中でプラスなことが起きれば、チームみんながハッピーになるかな?”、“それが転じて聴いてくれるみんなもハッピーになることが増えたらいいな”。そんな気持ちです。自分自身はそんなに変わっていないです」
──Mashoeさんはずっとお一人で楽曲を作ってきて、一人でリリースもできると思うのですが、その提示された豪華客船に乗ってみようと思ったのはどうしてですか?
「正直、先が見えないと思っていたというか…。自分自身がこの先のMashoe(当時mashoe’)の活動にあまり期待していなかったところに、“ずっと聴いていたよ”って声をかけてくれたのが今のチームでした。だから、“信じてくれる人がいるならもう一回やってみようかな”と思って。僕はもともと人前に出て演奏するよりも、作品を作ることが好きなんです。いろいろな楽器を演奏して、その中で歌うのが好きです。だからこの先もコンスタントに作品を出していくだろうし、それを楽しみにしていただけるとうれしいです」
──なるほど。楽曲をコンスタントにリリースしていくのであれば、メジャーレーベルと組んでチームで動くほうが楽でしょうしね。
「そうです。本当にそれだけです。おかげで今はすごくのびのびと楽曲作りができていて、すごく楽しいです」

──最新曲「Crazy In The Rain」をリリースする際のSelf Liner Notesに
「自分が心を打たれたのは70s~80s のソウル/ファンクミュージックだ。Marvin Gaye,Donny Hathaway,Barry white,Jacksons…心を震わせた音楽の良さをまだ知らない人達にどうしても知ってもらいたい。この曲がきっかけになってくれれば、そう思いクラシックなソウルミュージックに倣ったこの楽曲の制作を始めた。」
とありました。「Crazy In The Rain」についてお話を伺う前に、Mashoeさんがそもそも音楽を好きになったきっかけや、音楽を作りたいと思うようになった経緯を教えてください。
「音楽を好きになったのは親の影響です。親が音楽を聴いたりカラオケに行ったりすることが好きで、幼少期からよくカラオケに連れて行ってもらっていました。そこで歌謡曲やJ-POPに触れていて。家にギターもあったので、ずっと続けていた野球をやめたときに、“歌うことも好きだし、やってみようかな”と思ってギターを始めたのが、音楽を始めたきっかけです」
──70年代〜80年代のソウル、ファンクミュージックに出会ったのは?
「そこからずっとアコギの弾き語りをやっていたんですが、高校生のときに初めてライブハウスでライブを行ったら、対バンだった先輩から“お前の音楽はつまらん”と一蹴されて…。そのときに“これ、聴いてごらん”と教えてもらったのがスティーヴィー・ワンダーのアルバム『トーキング・ブック』でした。でも、その先輩はその日に初めて会った人なんですよ」
──初めて会った人に!?
「はい。それで『トーキング・ブック』を聴いたら、背中に稲妻が走るような感覚になりました。さらに、その先輩が“digる”ということを教えてくれたので、ソウル・ファンク以外にアシッドジャズ、ネオ・ソウル…と様々な音楽を聴くようになりました」
──先輩の一言で聴く音楽は変わったと思いますが、そこからご自身がやる音楽も変わっていったのでしょうか?
「変わっていきました。アコギ1本でファンクをするにはどうしたらいいか?を考えるようになって、エド・シーランのようなパーカッシブなギターの弾き方も真似したり…」

──初ライブならびにブラックミュージックとの衝撃的な出会いは高校生の頃ということですが、そこから趣味ではなく、音楽を仕事にしたのは何かきっかけがあるのでしょうか?
「高校卒業後、進学せずにバイトをしながら弾き語りの活動をしていました。活動を始めた頃から“売れたい”という気持ちはあったんですけど、特に何か算段があるわけでもないし、自信もなければ行動力もなかったので、デモをどこかに送るというようなことも全然していなくて。『未確認フェスティバル』には何度か応募しましたけど、一般投票がとにかく集められなくて2回戦くらいで終わる…みたいな。そんなうだつの上がらない日々が続いていたんですが、19歳のときに手足の神経が麻痺する難病を患って3ヶ月くらい入院していたんです。そのときに、どこでどう知ったのかは忘れてしまったのですが、ダニー・ハサウェイの『ライヴ』というアルバムを聴いて。“すごくカッコいい!“と思って、”いつか、こういうことができたらいいな“と思うようになりました。そして退院した2日後くらいに、88鍵のピアノを買って、体が全然動かない状態なのに新宿まで取りに行ったんです」
──もはや執念のようですね。
「動きたかったんだと思います。そこから、リハビリの先生に指のサポーターを作っていただいてピアノを始めました。その時期に、トム・ミッシュが10分で曲を作るという企画をYouTubeで見て、パソコンでアンサンブルを作れることを知って、“アンサンブルを作ってみたい!”と思って20歳の誕生日に表参道のApple Storeに駆け込んで、ローンでMacを買いました。20歳1日目から債務者になりました(笑)」
──退院後の行動力は凄まじいですね。
「こうやって振り返ると、病気になって入院したことが、覚悟が決まったタイミングだったような気がします。“もうこれしかやっていけなくないか?”と腹が据わったというか…。あれ以上のことはもう僕の人生で起きないだろうと思うと、何も怖くなくなりました」
──10代で難病を告げられるのはショッキングですよね…。
「そうですね。でも意外と当事者になると、そこは大丈夫なんです。もちろんギターが弾けなくなったのはショックでしたけど、そのショックは1日だけで、あとは“この先どうするか?”を考えていました」
──それを考えたときに、また音楽にたどり着くんですね。
「本当にそれしかやることがなかったんですよ。高校も歌を教えてもらえる学校だったので。思えば、その頃から音楽の道を志していたんだと思いますし、病気したくらいでは諦められなかったんだと思います。一番仲の良い友達が大橋ちっぽけなんですけど、彼が『水曜夜のエンターテイメントバトル エンタX』で優勝して、“メジャーデビューします”って言っているのを、入院中に見て。それが僕のハングリー精神を掻き立てたんだと思います」
──ブラックミュージックに出会ったのも“お前の歌はつまらない”と言われたところからでしたしね。
「ずっと“悔しい”という気持ちが原動力なんだと思います。本当はヨシヨシされたいんですけど(笑)。でも火種は、自分で見つけてくる悔しさなんだと思います」

──ではここからは最新曲「Crazy In The Rain」について伺います。この曲はどのような経緯でできた曲なのでしょうか?
「“最近、踊れる曲を作っていなかったな”と思って、“踊らせたい”というところからスタートしました。“自分がツボなテンポ感の曲を…”ってところから取り掛かったんですが、リスペクトが強い分、間違ったものは作りたくないという思いもあって苦労しました。だけど、この曲を聴いて“こういう音楽がルーツにあるんじゃないか”って考えたり、“話のタネにしてもらえたりしたりするといいな“と思って仕上げていきました」
──クラシックなことだと、過去にやり尽くされているという点でも難しさがありそうですよね。
「そうですね。だけど、自分が聴いてきた音楽は、もちろんファンク・ソウルだけではないので。最近はジャズも好きですし、クラブで鳴っているようなエレクトロなサウンドも好きなので、そういう自分が“気持ちいい”と思えるものをそのまま出せば勝手にオリジナリティが出てくるだろうと割り切りました」
──編曲の面ではどのようなことにだわりましたか?
「最初は、ドラムの音だけモダンにしようかな?とも思ったんですけど、まっすぐにしたほうが伝わるような気がしたので、最終的に楽器はシンプルにしました。ストリングスは手伝ってもらいましたが、そのほかの楽器は全部自分で演奏しました」
──打ち込みではなく?
「はい。全部、生で演奏しています。だから“頑張ったな”と思いますし、すごく納得した音になりました。今回は、歌のメロディに対して楽器をどう押し引きするか?にすごくこだわりました。楽器のプレイヤーが、歌を引き立てるアプローチをしているのがソウル・ファンクの美しいところでもあると思っているので、その押し引きは意識しました」
──今回、クラシカルなソウル・ファンクのナンバーを作るにあたり、改めて当時の楽曲を聴き直したりもしたのですか?
「しました。そこで引き算の美学を改めて感じたんです。そういう意味ですごく勉強になりましたし、ときどきこうやってクラシックに立ち返るのはすごく大事なことだと思いました」
──体に染み付いているのは前提で、さらに楽曲を作るようになってから改めて聴くと、また全然違うものに気付けることもあるでしょうしね。
「はい。ディアンジェロが亡くなってからはディアンジェロしか聴いていなくて、今、僕の中で第二次ディアンジェロブームが来ているんですけど、やはり昔とは違う発見がありました」
──「Crazy In The Rain」は、ご自身のルーツでもあるソウル・ファンクと出会うきっかけになってほしいという想いで作られたということで、つまりは誰かに聴いてもらわないと意味がないと思うのですが、聴きやすさや広まりやすさということについては何か意識したのでしょうか?
「メロディの聴きやすさはすごく意識しました。幼少期にカラオケに行っていた頃に聴いていた歌謡曲やJ-POPの要素が自分の筋肉になっているので、自分が気持ち良いと感じるポイントは日本の古き良きメロディなんです。それをソウル・ファンクに盛り込んだのがこの曲です。聴き馴染みのあるサビや、サビが終わったあとのゴージャスな展開などは特にこだわりました」
──歌詞も素敵ですよね。
「確か、書いたのが5月6月で梅雨だったのかな?…ちょうど雨が降っていて。雨って温度感を描きやすいんです。ずっと描いてみたいと思っていた男女の移ろう恋心が、雨を使えばうまく書けるかな?と思って、雨を題材に書き始めました。最初は土砂降りの雨だった気がするのですが、大和田慧さんと相談しながら、調整して今の形になりました」
──大和田慧さんとの作詞はいかがでしたか?
「“自分のものじゃない”という感覚もありますけど、すごくプラスになりました。メジャーデビューしてから、“自分の弱さを歌詞の部分でもっと出していこう“と思うようになったのですが、主観だとどうしても解像度が落ちるんです。だから僕のことを俯瞰で見ている大和田さんが解像度を上げてくれました」
──第三者が加わったほうがご自身の解像度が上がるって、不思議ですね。
「僕が“できました”って大和田さんに投げるものが割と抽象的なもので、大和田さんがそれをすごく解像度を上げて戻してくれました。その作業で本当の自分の姿が見えたというか…。“僕は鏡を見ないで生きてきたんだな”、“伏目がちに生きてきたんだな”。そう思いました。でも同じように自分に自信がない人ってたくさんいると思うんです。だから僕が自分の弱いところも赤裸々に書くことで、“僕もこんなだし、みんなもあまり気負わなくていいよ”というメッセージにもなるといいなと思いました。それに、今回は僕が“ここ、言いたい”と思っていたところは、何も言っていないのに残してくださっていて」
──残したいと思ったのはどの部分なのでしょうか?
「<全部雨のせい>です。僕は他責なので、絶対に人のせいにしたかったんです」
──特に恋愛だとそういう気持ちになりやすいですよね。
「そうです。それに、何事においても、そういうマインドでいたほうが先に進めると思うんです。物怖じするのってその結果が怖いからだから。“当たって砕けろ”とよく言いますけど、とはいえ、なかなか当たりに行きにくいじゃないですか。だけど、“雨だし、しょうがなくね?”と思ったらいいんじゃないかな?って」

──さらに歌詞の話をすると、<妄想だって はち切れそうだ 人生最後の夜まで一緒に居て欲しい>というフレーズも愛おしいですね。
「僕もここ、とても気に入っています。このDメロ以外は強がっているというか…少し弱い部分を隠しているんですけど、ここで本音を出していて」
──その本音が<人生最後の夜まで一緒に居て欲しい>なんですね?
「僕、重い男なんです。重男です(笑)。でもきっとそれくらい言ってもらってうれしい人もいるでしょうし…」
──普段ならいろいろと考えてしまって言えないような重い感情も、歌だと歌えますし。それがMashoeさんが音楽をやっている意味でもあるのかな?と思いました。
「そうですね。メジャーになってから自分の弱いところも歌詞に出すようにしたと言いましたけど、インディーズの頃は、あまり歌詞に重きを置いていなかったんです。それよりも面白い歌詞や言葉遊びを楽しむ感覚でした。だけど、今、こうして自分が赤裸々な姿を歌詞に書くようになってから他の方の歌詞を読んでみると、言葉遊びに徹しているように感じていた曲にも、必ずどこかにその人の本質が現れているなと気づいて…」
──それに気づいたことは大きいですね。
「はい。それに気づいた上で、この先、めちゃくちゃな歌詞になるかもしれないですし、もっと面倒くさい男の本音になるかもしれないです(笑)。そこは自分でも楽しんでいきたいです」

──それから、アーティスト写真および楽曲のジャケットがアメコミ風イラストなのもMashoeさんの特徴となっていますが、これにはどういった意図があるのでしょうか? 例えばアメコミがお好きだとか?
「好きです。『雨に唄えば』とか昔の洋画も好きですし、アメリカの昔の風情とかも好きです。洋楽の入り口はファンクだという話をしましたけど、さらに立ち返ると、ひょっとしたらディズニー映画かもしれないです。1950年代のディズニーのショートフィルムって、バックでビッグバンドのジャズが流れていたりしていて。そう考えると、その頃からアンテナは立っていたのかもしれないです。アーティスト写真やジャケットに関しては、チームみんなのアイデアで、いつまでこの形が続くかはわからないですが、僕も気に入っています」
──逆に、この先、イラストじゃなくなる可能性もあるんですね?
「はい。ただ、音楽とアートは密接に繋がっているものだと思うので、ジャケットやアーティスト写真もアートとしてこだわっていきたいです」
(おわり)
取材・文/小林千絵

