ーー再結成を発表して、今は身も心もすっきりという感じですか?

ISEKI「まさにそうです。まっさらな気持ちで、これから何をやっていこうかっていう」

KUREI「新人バンドと同じような心境ですね。ここから下積み時代に突入みたいな(笑)」

ーー今だからこそ冷静に振り返れるかもしれないので、デビュー即「LIFE」が大ヒットし、紅白にも出演という、あの鮮烈なブレイク劇を、当時はどのように受け止めていたのか聞かせてください。

KUREI「もっとありがたく思えればよかったなと。なんか忙しすぎて、ありがたみがわからなかった。今だったら、もう少しいろんなものに対して丁寧に、一つひとつ向き合えていた気がします。本当にありがたいことでしたから」

ISEKI「忙しすぎて、かみしめる時間もなかったし、自分たちの身も心も、ふさわしいレベルに達していなかったように思います。技術もそうだし、メンタル的なところも、ヒットしているという状況についていけていなかった。未熟なまま進んでしまいました。それを今日まで、少しずつ取り戻してきた感じはあります」

KUREI「逆に言うと、調子に乗る時間もなかったし、自覚もないままで」

ISEKI「あれよあれよとね」

ーーメジャーデビューから解散までの7年、「LIFE」の大ヒットが重荷になっていたのでしょうか。それとも、ただただその日やるべきことを、こなしているような日々だったのでしょうか。

KUREI「僕は、「LIFE」の亡霊と闘っているような気持ちでした。どこに行っても“また「LIFE」みたいなのを”と言われて、それがイヤでイヤで、ちゃんと現実と向き合うこともできないような毎日でした。何周か回ってようやく、「LIFE」のありがたみ……ありがたみばっかり言っていますけど(笑)、“この曲のおかげでいろいろ出会いもあったなあ”みたいなことを考えるようになりましたね」

ーー自分たちが亡霊になってしまった?

ISEKI「亡霊……そうですね、なんだかんだで当時は亡霊だったな。なんか、自発的じゃないというか、自分たちでコントロールしている感じがないんですよ。それはもう、しょうがないんですよ。そういう建てつけになっているから。でも、自分で自分のことをコントロールできなくなると、人間ってだんだん病んでくるじゃないですか。好きなことをやってはいたんだけれども、途中からやらされているような認識に変わっていったんだと思うんです。「LIFE」のような曲を作ってほしいという、誰かの期待とか願いも含めて、そうなってしまったんじゃないかなと今は思いますね」

ーー「THE FIRST TAKE」で、KUREIさんが「ちょっと話そうか」と言って、「イヤになっちゃったんだよね」と語っていましたね。

KUREI「まあISEKIが今言った通りで、キマグレン像というものができちゃったんだと思います。本来アーティストって、自由に表現しなきゃいけないじゃないですか。でも、自分たちの想いや誰かに届けたい気持ちを、音楽を通じて自由に表現したものが、誰かの心に響くっていうことが、すごく綺麗事のように感じられてきて。それで、“お前らがやらせてんじゃん”みたいに思っちゃうようにもなって、もういいやと。全然楽しくもないし、言葉ひとつにしても、台本があるわけでもないのに、圧がかかるというか……。たとえば“キマグレンと言えば夏、海ですよね”って、もう決まって言われるわけですよね。実は「LIFE」なんか、夏とか海とかひと言も入っていないのに、いつの間にか夏の曲になっているんです。もちろんそれは、ありがたいことのはずなのに、なんでしょうね、若くもなかったんだけど、やっぱり若かったのかもしれませんね。精神が熟していなかったのかも」

ーーその後、音楽への情熱が失われなかったからこそ、それぞれ活動を続けたわけですよね?

KUREI「僕は、OAUのMARTINとか周りのミュージシャンたちに、“KUREIは1回やめたらもうやらないだろうから、どんな形でも、趣味でもなんでもいいから続けようよ”みたいに言われまして。それでちょっと、バンドでゆるく活動することにしたんです。なんか、僕にとってはいい意味で、すごくいいかげんで、たとえばリハーサルが終わって本番までの間に、メンバーがどこかに飲みに行っちゃって、本番の本当に何分か前まで戻ってこないとか(笑)。その中で、あ、音楽って楽しいかも、練習すればもっと楽しいかもって思って、気がついたらキマグレンよりも長い期間、続けていました。それによって、もっと音楽の大切さ――たとえば楽器に対してとか、一つひとつの音符やメロディを作った人に対してとか――を考えるようになって、“ああ、なるほどね”って徐々にわかってきた9年間でした」

ISEKI「KUREIはバンドでしたけど、僕は一回ひとりでやってみたいなあっていうのがあったので、しっかりプレイできるように、楽曲制作をはじめ、いろんなことを自分なりにがんばっていたんですけど、どこかのタイミングで心が折れちゃって。このままでは音楽は続けられないなっていう状況になったんですよ。そこから、生活のこともあるんですけど、自分が音霊(ふたりが開業した海の家ライヴハウス。現「音霊OTODAMA SEA STUDIO」)で培ったものをいかして、イベントの企画とかにかなりシフトしていきました。解散して3、4年後ぐらいかな。そこから、音楽を続けるための方法を模索してきた感じですね」

ーーその間、お互いに連絡を取ったりはしていたんですか?

ISEKI「ちょこちょこ会ったりはしていましたね。お互い“がんばってんな”みたいな感じで」

ーーそこから、結成15周年タイミングの2019年の「ミュージックステーション」出演を経て、今回の再結成発表となるわけですが、改めて経緯を聞かせてください。

KUREI「昨年のちょうど今ぐらいの季節なんですけど、母親が亡くなりまして。まだけっこう若かったんです。65で」

ISEKI「65か……若いよね」

KUREI「いきなりだったんですよね。僕は普通にツアーをやっていて、名古屋まで観にきてくれていたんですよ。で、翌日帰って病院に行ったら、肝炎で数値が悪くて余命1年って言われて、俺も妹も一緒にいて“え?っ! だって、至って普通じゃん?”ってなって。でもこれはもう、普通の数値じゃないって言われて。その3日後ぐらいにはもう、意識が朦朧としてきて、あっという間でした。で、その間もそうなんですけど、ずっと前から“キマグレンはやらないの?”って言われていたんですよ。“いやもう、うるさいから!わかったから!”みたいな、ありがちな親子の会話をずっとしていて」

ーーキマグレンのファンだったんですね。

KUREI「でも、じゃあキマグレンをやろうって、すぐにはならなくて、お別れの会が終わったあたりから、ちゃんと見送ることはできたけど、俺は何もできなかったな、今からでも何かできることはあるんだろうかって考えるようになったんです。それで年末ぐらいにISEKIに電話して、バンドで音楽を楽しくやってはいるけど、明確に続ける理由がないから結局やめることになるだろうっていうことと、キマグレンの歌を聴きたいって、ずっと母親が言っていたことを伝えて、またやらないかって誘いました」

ーーISEKIさんは、どう答えたか覚えていますか?

ISEKI「覚えていますよ。“いいんじゃない?”って」

KUREI「そうそう(笑)」

ISEKI「僕の中で、キマグレンはもう、いつでも始められるマインドではいたんですよ。というのも、僕は本が好きでよく読むんですけど、ブロニー・ウェアっていう人の『死ぬ瞬間の5つの後悔』という本を読んで、このままだと後悔するかもしれないと思っていたからで。キマグレンはそもそも、KUREIとふたりでやっているものだから、ふたりともやりたいってならないとできないけど、でもやってみたいよなっていうのが、どこかにあったんですよね」

ーー現時点で発表されているのは材木座海岸での9月1日のワンマンライブ「-再会と再開-」ですが、どんな内容になりそうですか?

KUREI「まだ模索中なんです。今の僕らがやれることを、背伸びせずにやりたいと思っています。そこはかつて大人たちに言われたことがアレルギーになっているわけではなくて、もともとふたりで始まったものなので、やっぱりシンプルにふたりでやったほうがいいものになるんじゃないかと」

ISEKI「なんでもいいっていう言い方は、ちょっとアレかもしれないですけど……」

KUREI「いいじゃん!なんでもいいで(笑)」

ISEKI「KUREIはKUREIで培ってきた9年があって、僕がソロとしてやってきた9年とガッチンコするっていう作業は、いずれにしても必要になるので、今はそれをやっている最中です」

KUREI「正直言うと、俺は9年間、あまりキマグレンを聴いて来なかったんですよ。だから、新曲をやるのと同じような気持ちです。ちなみに、キマグレンって改めて聴くと、いい曲が多いです(笑)」

ISEKI「手前味噌ですが(笑)」

KUREI「そう、手前味噌ですが、当時の自分たちをほめてあげたいと、今は思います」

(おわり)

取材・文/鈴木宏和
写真/平野哲郎
メイク・ヘアメイク/徳田智美
取材協力/シーサイドイタリアン カンティーナ

キマグレン -再会と再開-DISC INFO

2024年9月1日(日)15:00 OPEN/16:00 START
鎌倉材木座海岸 海の家 Asia 特設会場
後援/FMヨコハマ、テレビ神奈川、神奈川新聞社

ローチケ

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