“金妻”ことTBSドラマ『金曜日の妻たちへ』シリーズの第3弾主題歌に起用されていた、「恋におちて -Fall in love-」の驚異的なヒットを、今なお鮮明に記憶している昭和世代は多いだろう。あれから40年。小林明子が、10周年でも20周年でも30周年でも行わなかったアニヴァーサリー・ライヴを開催する。後に兄のリチャードによるプロデュースも実現する、カーペンターズが原点でありつつ、UKロックの熱烈なファンでもあり、1990年代初頭には単身渡英してholiとして始動。ロンドンを拠点に元JAPANのスティーヴ・ジャンセン、ミック・カーンらや、ブライアン・イーノ、スティーヴ・ハウ(イエス、エイジア)、ジェフ・ダウンズ(バグルス、エイジア、イエス)など錚々たるアーティストとのコラボレートを重ね、2000年以降はハープ演奏で歌うなど、異色のキャリアを歩んできた彼女に、40年を振り返ってもらった。
──デビュー40周年、おめでとうございます。20周年や30周年の時とは、また違った感慨深さのようなものが、あるのでしょうか?
「20周年の時も30周年の時も、なんとなく、“そうだったんですね”みたいな感じで、さらっと過ごしていました。それというのも、私はそもそも作曲家としてキャリアをスタートさせましたし、自分がパフォーマーだという意識があまりないからなんです。ものを作る作業をしていると、ベクトルが内側に向くので、“お祝いライヴをやろう”とか、そういう気分にはならなくて…。でも、もう10年くらいになるんですけど、ボリウッド・ダンスを始めて、ダンスでステージに立つようになってから目覚めたというか、外に向けてエネルギーを発散する楽しさを知ったんです。それで今回初めて、周年記念のライヴをやることにしました。50周年の時に歌を歌えているかどうか、怪しいですし(笑)」

──遡ってお聞きしたいのですが、「恋におちて -Fall in love-」は『金曜日の妻たちへ』の主題歌としての書き下ろし曲だったのですか?
「それが違うんです。その1年くらい前にドラマとは関係なく、私が作曲家として…要するにプロとして初めて書いた曲でした。レコード会社のプロデューサーの方から、新人さんだったのかな? ある歌手のために書いてほしいというお話をいただいて。結局、そのプロジェクトは流れてしまいましたが、“すごくいい曲だし、必ずどうにかするから待っていてほしい”とおっしゃっていただきました。それから1年くらい経った時に、その方から“考えたんだけど、君の声で歌ったほうがいいと思う。やってみない?”と改めてお話をいただいて、自分で歌うことになったんです。ドラマとのタイアップが決まったのは、その後です」
──ドラマとのマッチング具合が完璧でしたが、どのように出来上がった曲だったのでしょうか。
「私は作曲家なので、歌詞は書かないので、その代わりに、なんとなく雰囲気で浮かんできた英語で歌ったものを、デモにしていたんです。それを、番組のプロデューサーの方が気に入ってくださって。というのも、あのドラマのシリーズは代々、洋楽を使っていたんです。だから、“そのまま英語で”ということだったんですけど、レコード会社としては、全部英語ではシングルとして出せないから、英語と日本語の半々にしたいと。それで、そういう歌詞を書ける作詞家さんということで、湯川(れい子)先生を紹介していただきました。でも最初は、番組でも英語の部分しか流していなかったですし、湯川先生の日本語詞の部分も英語に訳したヴァージョンだったんです。それで、ヒットの兆しが出てきたところで、英語と日本語と半々のヴァージョンに換えました。そうしたら、“歌っているのは日本人だった”ということで拍車がかかって、本格的なヒットになったんです」
──そうだったんですね。あの社会現象とも言えるようなヒットを、ご本人はどう感じていたのでしょうか?
「もう奇跡というか…まるで簡単に起きたことのようでした。全然簡単ではなかったんですけど。曲を書いてから1年以上経っていましたし、英語の部分だけフィーチャーされたり、全部英語詞にしてみたり、道のりが大変で、これで売れなかったら私の責任だと思っていました。それが、TBSさんに連日、“誰が歌っているの?”とか、“いつ発売されるの?”とか、問い合わせが殺到していたらしくて、シングルで発売したら最初の5,000枚くらいがすぐに売り切れてしまって、そこからわざわざアートワークまで変更して、追加で発売したんです」

──そうだったんですか? 知りませんでした…。
「はい。ジャケットをイメージ・チェンジして。だから最初のプレスは、幻の5,000枚ということになっています(笑)。“売れなかったら…”って、あんなに心配していたのに、ふたを開けてみたら、まるで簡単なことのようにヒットしていて、不思議でした。不思議な磁石に引き寄せられるように、聴いてくださる方がどんどん増えていく感じで、“そういうことってあるんだな“って…」
──そもそもが、作曲家志望だったのですか?
「学生のころは、歌っていたんですよ。カーペンターズとかリンダ・ロンシュタットとか、カリフォルニアの音楽を中心にコピー・バンドをやっていましたし、歌は歌いたかったんです。事務所やレコード会社の方に、デモテープを聴いていただくチャンスも何回かあったんですけれど、どうしてもデビューまでは漕ぎ着けなくて。あと、それまで足を踏み入れたことのなかったあの芸能界の雰囲気ですよね…。まず頭のてっぺんから、つま先まで見られて、“あと5キロやせられるな?”とか、“彼氏いるの?”とか、真っ昼間でも夕方でも、“おはようございます”とか。これは馴染めないなと(笑)。慣れていきましたけど、その頃は“無理だ”と思いました。でも音楽は続けたかったので、裏方として曲だけ書いていこうと思っていました」
──図らずもシンガーとしてもデビューがかなった後は、リチャード・カーペンターによるプロデュース(1988年リリース アルバム『City of Angels』)が実現しますね。
「昔、カーペンターズとビートルズが2大洋楽みたいな時代があって、私は完璧にカーペンターズ派だったんです。自分が、カレン・カーペンターとそっくりに歌えることも知っていました(笑)。確かデビュー直後だったと思うのですが、チャリティ・コンサートで香港に呼んでいただいた時に、現地のレコード会社のスタッフから、“あなたの声は本当にカレン・カーペンターに似ているのに、どうしてカーペンターズのお兄さんと一緒にやらないの?”って言われて、“いいアイディアだから本人に頼んでみよう”ということになったんです。それで、湯川先生のお知り合いでリチャードと懇意にしていらっしゃる方を通じて、お願いしたら快諾していただきました」
──その後、ロンドンに移住してholiとして活動されますが、何かきっかけがあったのでしょうか。
「実は私、ブリティッシュ・ロックのファンなんです」
──意外でしたが、プログレ好きだったそうで。
「そうなんです。プログレが大好きで。中高生の時に好きだった音楽の影響って、強いじゃないですか。自分の礎になるというか。アーティストとして自分を表現するのであればプログレをやりたいと思っていて、その気持ちがどんどん強まってしまって、ロンドンに行きました」

──そこからどういう経緯で、元JAPANのスティーヴ・ジャンセンやミック・カーンらと繋がっていくのですか?
「JAPANに関しては、特に熱狂的なファンだったというわけではなくて(笑)、JAPAN解散後に再集結して結成されたレイン・トゥリー・クロウというユニットがすごく好きで、いつも聴いていたんです。そしたら、たまたま近所に彼らのマネージャーをしている人がいて、これもたまたまロンドンに住んでいた作曲家の亀井登志夫さんの友達だったらしくて、その関係で紹介してもらえたので、アルバムのプロデュースをお願いしたら、“いいよ”と。ひょんなところで、ひょんな出会いがあるんですよね」
──“持っている”ということかもしれませんね。
「その後、今度は私と同じ建物に住んでいたおじいちゃんから、近所で行われるパーティに誘われて、知らない人ばかりだし、年配の方が多いみたいだから行きたくなかったんですけど、義理があるので行ったんです。そこで、ある女性から、“私たち夫婦の下に住んでいる子もミュージシャンだから、今度紹介するわ”と言われて、口約束をして帰りました。そしたら後日、“セッティングしたわ”と本当に電話がかかってきて。実際に会ってみると、モデルさんのようにきれいなブロンドの子で、“ドリーム・アカデミーって知ってる?”って聞くから、“もちろん。アルバムも全部持ってるわよ”って答えたら、“女性メンバーのケイト(・セント・ジョン)っているでしょ? あれ、私”って(笑)。それで意気投合して、彼女のマネージャーの人脈から、今度はブライアン・イーノを紹介してもらうことになるんです」
──ブライアン・イーノ! U2とのコラボレートですね。
「突然、ブライアンのマネジメントから電話がかかってきたんです。“日本語で歌える人を探しているから、今すぐスタジオに来てくれないか?”って。行けない状況でもなかったから行ってみたら、本物のブライアン・イーノさんがいて、気さくに挨拶してくれました(笑)。それで、バンドに紹介したいからということで、スタジオの部屋に入れてもらったら、バンドのメンバーがやっぱり気さくに挨拶してくれて、“え!? U2じゃん…”と」
──なんと!
「ジェフ・ダウンズやスティーヴ・ハウにしても、そういう芋づる式な感じでした。特にスティーヴ・ハウは私にとって神様のような存在だったから、もう死んでもいいと思いました(笑)」
──(笑)。
「「恋におちて -Fall in love-」のヒットもそうだったんですけれど、物事がスムーズに行く時っていうのは、神の思し召しというか…そういうパワーがどこかで働いている気がします。もちろん、そこまでの努力も苦労もあるんですけど、辛抱してなんとか切り抜けた後に、ある波長みたいなものに乗るというか、乗せてもらうというか…」
──その後、ハープをフィーチャーした作品を発表されたのは、何かきっかけがあったんですか?
「やっぱりロンドンで知り合った、若い日本人女性のハープ奏者と仲良くなって、“何か一緒にやってみよう”となって、家に来てもらって音を合わせてみたんです。そこでハープの音色の優しさと美しさ、エレガントさに魅せられて、“これだ!”と思いました。私は声も大きくないですし、こういう声なので、バンドだと負けてしまうんです。かといって、ピアノの弾き語りは好きではないので、やりたくなくて…同時にやると、集中できないんです。そう考えた時に、ピアノで歌うのもいいけど、私の声を一番引き立ててくれるのは、ハープだと思いました。それくらい惚れ込んだので、今後もチャンスがあればハープで歌いたいです」

──というわけで、11月8日に、デビュー40周年記念公演『小林明子 40th Anniversary Live Yesterday Once More~with Love~』が開催されます。お話しになれる範囲で、内容を教えていただけますか?
「ライヴのタイトル『Yesterday Once More』は、もちろんカーペンターズの名曲からお借りしたものです。私の原点ですから。先ほども言いましたように、バンド演奏で引き立つ声ではないので、最近の私の相棒である、アーティストでピアニストの丸尾めぐみさんと、基本的にふたりでやります。楽器とのバランスが悪いのはいやなので、DTMみたいなものも使いながらになります。あと、サプライズもご用意しています(笑)」
──ファンとしては、セットリストも気になるところだと思います。
「40年を自分で振り返ってみようと、改めて全てのアルバムを聴いてみて、“ああ、こういう曲もあったな”とか、いろいろな記憶が蘇ってきました。自分の足跡というか…40年間の軌跡をたどるライヴにしたいので、セットリストの目標は全アルバムを網羅することです。ステージでは今まで1度も歌ったことがない曲も、3曲ぐらい歌うつもりです」
──さらに、サプライズもあるとか?
「はい。まだ言えませんが、楽しみにしていてください(笑)」
──意気込みを聞かせてください。
「40年前と今と、まったく同じというわけにはいきませんけど、今の私を見てほしいです。私がやってきたことを一緒に振り返って、ここまで続けてこられたということを、一緒に祝っていただけたらうれしいです」
(おわり)
取材・文/鈴木宏和
LIVE INFORMATION

小林明子 40th Anniversary Live Yesterday Once More ~with Love~
2025年11月8日(土) 開場 17:00 開演 18:00
会場:JZ Brat Sound of Tokyo
