橋本祐樹(はしもと・ゆうき) YUKI HASHIMOTOデザイナー
1987年生まれ。京都造形芸術大学を卒業後、2011年にアントワープ王立アカデミーに進学。学士課程修了後、「KRIS VAN ASSCHE(クリス・ヴァン・アッシェ)」「RAF SIMONS(ラフ・シモンズ)」「MAISON MARGIELA(メゾン・マルジェラ)」でデザインアシスタントを務める。自身のブランドの立ち上げへ向けて基礎を再度学ぶため修士課程に進学。修士課程期間中に中国のバッグメーカー「KITAYAMA STUDIO(キタヤマスタジオ)」から協業のオファーを受ける。18年、「YUKI HASHIMOTO」を設立。19年春夏コレクションでデビュー。

デザインだけではブランドの仕事は完遂しない

――橋本さんはアントワープ王立アカデミーで服作りを学び、クリス・ヴァン・アッシュ、ラフ・シモンズ、メゾン・マルジェラでアシスタントを務め、帰国して自身のブランドを立ち上げました。以降、埼玉県ふじみ野市にアトリエを構え、コレクションを発表しています。
帰国後、ご縁があって出会った場なんですよ。空間も広かったので気に入って、自分たちでアトリエに改装しました。そもそも僕は場所にはあまりこだわりがないんですね。ブランドもドメスティックとかインポートとか言われるけれど、その区分けもしっくりこないというか。今の時代、どこかの国のブランドである必要性はあるのかなあと思ってしまう。僕自身は東京にいてもパリにいてもアントワープにいても今と同じことをしているだろうし、あくまでブランドの中身を重視しています。
――アトリエでは昨春から生産もするようになりました。直営店を持って世界観を発信するのではなく、服作りの環境を整えた形です。
単純に、店を持つことよりも、作ることのほうが想像しやすかったんです。ブランドを立ち上げてからは、パターンや縫製は外注していました。ただ、コロナ禍で工場が閉まってしまったり、納期がズレてしまったりして、生産が安定しなかったんですね。そのことが背中を押した格好です。もともと縫製が難しい服が多く、意図した仕様にならないなど品質をコントロールしきれないこともありました。デザイナーブランドの服はアートに例えると希少性のある原画で、一般的なアパレルは大量生産を前提としたポスターだとすると、ポスターの工場で原画を制作するしかなかった歴史があります。その無理を続けてきたことで生産が安定しないなどの課題が出てきたのではないかと思うんです。自分たちで作れば、現実的なロットの問題や縫製上の課題も解決しやすくなり、無理なことも自分たちでハンドリングすればよくなります。また、ブランドは服を作ることが最終的な仕事であって、絵を描くだけでは完遂できません。自分はこれまで何をしてきたかというと、デザインしかしてこなかったんですね。その反省もあって、小ロットですが、内製化による量産に至りました。

プロセスを確認しながら、同じ場で一緒に服へと仕上げる

――服作りをする人材はどのように集めたのでしょう。
縫製士に関しては、生産管理をしている人間が文化服装学院の出身で、僕の叔母がバンタンデザイン研究所の先生をしているので、両校で新卒者の募集をかけていただいたんです。複数名の応募があり、2人を採用しました。縫製士は高齢化が進み、工場も若い人材がほしいけど「人が入ってこない」という状況が続いていますが、縫製に興味があり、服作りがしたいという人はいるんですね。ただ、部分縫いだと自分がどんな服を縫っているのか分からず、単純作業ばかりでは探究心を削いでしまいかねないので、うちでは1人が1着を丸縫いすることを前提にしています。効率的ではないけれど、人間的というか。1着1着の生産プロセスを確認しながら、一緒に作り上げていきます。途中で「ちょっと違うな」と感じれば、やり方を変えてみたり。以前のようにサンプルが届いたときに箱を開けるワクワク感はなくなったけれど、その場で服が出来上がっていくので楽しいですね。
――パターンも内製化しました。
今年4月にドイツ出身のテーラーをチームに加えました。彼がパターンの製作とテーラードアイテムの縫製を担当しています。コレクションの製作時には、新しい表現に挑戦したいけれど作っていいかどうか悩むアイテムが出てくるのですが、パターンを外注すると当然ながら相応の時間とコストがかかります。それが今は同じ場所でできるので、まずは服の形にしてみて、良ければサンプルを作る、駄目だったら止めることができる。良い意味で気楽に形にして、良し悪しを判断できるシチュエーションが増えました。これはアントワープでアシスタントを務めたラフ・シモンズの影響もあるかもしれません。

パターンとテーラードアイテムの縫製も内製化

――ラフ・シモンズもそうした服作りをしていた?
ダウンジャケットの新作を作るときにこんなことがありました。ある日のこと、ラフから「布団を買ってきてくれ」と言われたんです。で、布団を安く売っている移民街に行って調達しました。その布団を裁断し、縫い合わせたものをパタンナーに渡して、パターンをひいてもらうんです。デザイン画と口頭の説明でパターンを依頼するとパタンナーが気を利かせて整えてくれ、こちらが思い描いていたものよりおとなしくなっていたりするからです。自分たちも形を見ないと判断できないから、そういう作り方になっていきました。ユウキハシモトも以前はデザイン画、トワル、フィッティングという流れを採っていて、トワルの完成度は高いけれど、ちょっとズレたことが起こりにくいと感じていました。発見があまりないんです。自分たちで作ると、そのプロセスで「こんなふうになったけど、これもありだね」とか「こっちじゃなくて、あっちだね」と服作りを進められる。内製化を始めて1年半が経って、生産できる品番数やサンプル数も増やせそうな態勢になってきています。

デザイン企画以外のブランドの強みを身につける

――ユウキハシモトの商品は現在、卸をベースに展開しています。
卸先で予想よりも早く売り切れて、ちょっとだけ追加生産してほしいという要望にも応えられるようになりました。実際、そうした機会は増えています。一方で、他のデザイナーブランドからの生産依頼もいただくようになりました。デザイナーブランドはどうしても受注枚数が品番によって差があり、いわゆるマス向けではないデザイン性の強いアイテムなどは小ロットで作ることになるんですね。でも、縫製工場に依頼するとサンプル工賃みたいになってしまって、とてもじゃないけど回していけない。自分たちも困った経験があるので、何とか解決できればと思い、2人の縫製士にこまめに対応してもらっています。
――フレキシブルに対応できることは生産機能を備えた利点ですね。
まだまだ課題は山積みですが。デニムとニットはまだ設備がなく、生産はまだ外の工場に依頼しています。他にも、鞄や靴などの革製品を作る環境も整えたい。服だけでなく、1ルックを構成するアイテムを全て作れるようにすることが目標です。テーラー経験者がいるので、将来的にはオーダーメイドのスーツなどもやりたいと考えています。
――ビジョンは広がりますね。
デザイナーブランドは今後、デザイン企画以外の強みを持たないと存続が難しくなると思うんですね。例えば直営店を出すとか、生産背景を持つとか、子供の頃からスマートフォンを使う時代ですから自分たちでSNSを使って発信していくとか。何がいいのかはブランドにもよるけれど、デザイナーがやらなければいけない仕事は時代と共に変わり、多様化していくのではないでしょうか。90年代ぐらいまではメゾンのトップはデザイナーと呼ばれていましたが、00年代後半ぐらいからディレクターと呼ばれるようになり、現在はその呼称が一般的になっています。服のデザインだけでなく、ブランディングのディレクションまでが仕事になったからです。デザイナーはもともと、時代変化に呼応してやるべきことを見つけるのが仕事だと、僕は認識しています。コレクションを作って卸すことはもちろん大切ですが、それだけでは時代そのものから乖離してしまう。そんなことを感じます。
――ユウキハシモトの場合、生産の内製化からもう一つの強み作りを始めたと。
そうですね。デザインについてもチーム化していきたいと考えています。アントワープでもそうでしたが、ヨーロッパのブランドの多くはデザインだけでも生地やプリント、ディテールなどの専門職があり、チームで取り組んでいます。当時の僕は自分だけでデザインは完結するものだと思っていたので新鮮でした。コミュニケーションが重視されているんですね。ユウキハシモトのデザイナーは僕だけですけど、デザインの人材を増やしたいとずっと思っていました。人数が多いほうがいろんなアイデアが生まれるし、いろんな新しいことができるようになるので、チーム化を図っていきたいと考えています。

写真/遠藤純、Y提供
取材・文/久保雅裕

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久保雅裕(くぼ まさひろ)encoremodeコントリビューティングエディターウェブサイト「Journal Cubocci(ジュルナル・クボッチ)」編集長。元杉野服飾大学特任教授。東京ファッションデザイナー協議会 代表理事・議長。繊研新聞社在籍時にフリーペーパー「senken h(センケン アッシュ)」を創刊。同誌編集長、パリ支局長などを歴任し、現在はフリージャーナリスト。コンサルティング、マーケティングも手掛ける。2019年、encoremodeコントリビューティングエディターに就任。

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