──35周年おめでとうございます。率直な心境を聞かせてください。

「ブラジル・サンパウロで生まれて、10歳までの幼少時代をブラジルで過ごして、日本に移ってから本格的に音楽活動を始めました。1989年にアルバム『カトピリ』でデビューした時の想いは、“人生を楽しんで欲しい”と言うことでした。ブラジル人は楽しむことの天才と言われていて、自分でもそれをしっかりと感じていたので。そして、アルバムを10枚作り終えた時に、“音楽の旅”と題していろんな国々の歌を歌うようになりました。言語も、それまではずっとポルトガル語にこだわっていましたが、台湾で初めてコンサートを行った時に、中国の『何日君再来』という曲を歌ったら大合唱になって、言葉の大切さを知りました。それからは、イタリアをテーマにしたアルバムならイタリア語、フランスならフランス語と言うふうに、その国の言語で歌うようになりました。もちろん、日本のアルバムは日本語で。そういう明確なコンセプトを掲げてやってきたことが、今となってはよかったと思います」

──ボサノヴァという音楽、さらに言えばボサノヴァという言葉を日本に浸透させたのが小野さんです。ご自身でも、足跡を残してきたという気持ちがあるのではないですか?

「自分では毎回、“アルバム作るのが楽しくてしょうがない”という気持ちでした。今でもアルバムを聴き返すと、そのことを思い出します。1枚1枚に、たくさんの思い出が詰まっています。“ああ、ここをこうすればよかった…”とか、小さなことは色々ありますけど、その時はそれが私のマックスだったので、全てがいい思い出です。今聴くと、ちょっと恥ずかしいところもあるけれど(笑)」

──功績とか貢献度とか、そういうことは我々のような周りが言っているだけであって、ご本人としては、とにかく楽しくやってきたと。

「そうなんですよ(笑)。私はいい時代に生まれたと言うか、日本でちょうどワールド・ミュージックがブームになり始めた時に、私もそのブームに乗っかるような形になって、“好きなブラジルの音楽をポルトガル語で歌いたい”と言ったら、それが叶ってしまったんです。恵まれた時代にデビューさせていただいて、好きなことをずっとやってこられましたから、幸せですよね。日本のリスナーの方も、ポルトガル語で歌っているにも関わらず、ずっとサポートしてくださって、改めて感謝の気持ちでいっぱいです」

──生まれてから10歳までというのは、人間形成においてとても重要ですよね。ご自身のマインド、メンタリティみたいなものは、ブラジル人であり日本人でもありという感じなのでしょうか。

「両方出ます(笑)。ブラジルの人は、感情豊かですから。だからそう、笑ったり泣いたり、怒ったり、ほとんどブラジル人になっている時もあります(笑)」

──音楽の原体験というのは、どのようなものだったのですか?

10歳で帰国して、日本での生活に溶け込んだのですが、それでもいつも家に帰ってくると、ブラジルの音楽を聴いていました」

──好きだから、ですか?

「“好きだから”と言うのもありますし、“ブラジルが懐かしかった”と言うのもありました。音楽をかけるとブラジルに戻った感じになれていたんだと思います。それで123歳の頃からギターを始めて、レコードでよく聴いていた曲を、ギターを弾いて何曲か歌えるようになった時から、“私は歌を歌っていこう!”と思っていました。ピアノも、それこそバイエルとか、やってはいたんですけど、すっかり練習が滞っていて(笑)。その時に、たまたま父がブラジルから持ち帰ってきていたギターが家にあったので、触っているうちに、そっちのほうに引き寄せられました」

──10歳で日本を知るまでは、“日本人はみんな刀を持っていると思っていた”という記事を読んだことがあるのですが、本当ですか?

「ああ、そうそうそう(笑)。思っていました。両親が連れていってくれた映画で見たのかな? そういうイメージが強くて。でもとにかく、日本のすべてが新鮮でした」

──初めて人前で歌ったのは、お父様が出店したブラジルの料理と音楽の店なんですか?

「そうです。15歳ぐらいの時から、時々出ていました。デビューのきっかけも、そこで歌ったり、ジャズのライヴハウスで歌ったりしていたことでした」

──例えば、日本の歌謡曲などに興味は持たなかったのですか?

「ブラジル音楽に没頭していました。もちろん、テレビで流れる歌謡曲は、父も大好きだったので聴いてはいましたよ。ピンク・レディーとかキャンディーズとか、フィンガー…」

──フィンガー5。

「そうそう(笑)。聴いてはいましたし、それはそれで“楽しそう”とは思っていましたけど、そこまでと言うか。本当に私は、ビートルズもアメリカの音楽も一切、聴いていなくて、“音楽の旅”で初めていろんな音楽に触れるようになったんです」

──改めて、ボサノヴァの魅力とは、小野さんにとってどのようなものですか?

「ボサノヴァは、その場所の空気感を変えてくれるような音楽だと思います。色で言うならパステルみたいな、やわらかい色で、聴く人の気持ちとかを、その中に込めやすい音楽だと思うんです。歌っている時の私は、そう言うことを考えてはいないですけど、聴いていると、そうだなって思います。1曲1曲、かちっと決まりごとがあったりするような、知識がなければ楽しめない音楽でもないですし…クラシックみたいに。で、ジャズはすごく自由ですけど、どんどん進化しているので、そこに気持ちを込めるということが、ボサノヴァに比べたら、ちょっと難しいのかな?と思うんです。そんな感じがします」

──なるほど。

──そして、小野リサさんの音楽の魅力として、その声を挙げないわけにはいかないわけでして。

「いや〜、何故みんなそう言うのかなって(笑)。わからないんですよ」

──どうしてですか? それこそ空気感を一瞬にして変えてしまう、魔法のような声じゃないですか。

「私の声ってなんか、こもっているじゃないですか(笑)。ぱっと明るい感じの声じゃないから、いまだに好きではないんです。でも、皆さんが“すごくいい”と言ってくださって、そのおかげで今日まで生活することができているわけですけど(笑)」

──いやいやいや(笑)。これまでにたくさんの出会いや、思い出、輝かしい瞬間などがあるかと思いますが、特に忘れられないものはありますか?

「そうですね、たくさんの出会いがあって、素晴らしい方にお会いさせていただいてきて、本当に幸せだったと思うんですけど、中でも、私が“ボサノヴァをやろう”と決意した瞬間があるんです。と言うのも、父の店はお客さんに踊ってもらうお店だったので、サンバをよく歌っていたんです。そうすると、周りの楽器の音がすごく大きいから、自分の声量を超えるぐらい、大きく強く歌わないといけなくて、ずっと違和感を感じていました。そしたらある日、ホテルのラウンジで歌っていると、“静かに歌ってほしい”というリクエストがあったんです。その時に、“ここではボサノヴァだけを歌える”と思ったんです。そして、ボサノヴァだけを歌っている時に、“ああ、これが私の音楽なんだ”って実感しました。その瞬間のことは、とてもよく覚えています。デビュー前の1984年か、85年だったと思います。東京の湯島のホテルでした(笑)」

──それがあったからこそ、今があるのですね。

──3月20日には、デビュー35周年イヤーの締めくくりとして、東京の日本青年館で記念コンサート『小野リサ~Bossa World Standards~ 35th Anniversary Final』が開催されます。

「とてもゴージャスなメンバーで、お送りさせていただきます。今回はギターに小沼ようすけさんが参加してくださるので、自分でも楽しみです。それから、カレブ ジェイムズさんというアメリカのソウル・シンガーの方が、数曲一緒に歌ってくださることになったので、それも楽しみです。今回のセットリストを考えている時に、ソウルやR&Bを歌えるシンガーさんがいたらいいなという話になって、紹介してもらいました。35周年の特別企画です」

──日本の楽曲も歌うのでしょうか?

「はい。これまで日本の歌もたくさん歌ってきましたので、母の時代にヒットしたような懐かしい曲を、ちょっとアレンジして歌います。「一杯のコーヒーから」とか、ちあきなおみさんのヴァージョンで知られる「ダンスパーティーの夜」とか。内容盛りだくさんで、時間もたっぷりので、私のいろいろな部分を見ていただけたら嬉しいです」

──とてもライヴを大切にしている印象を受けるのですが、“No Live, No Life”という感覚なのでしょうか?

「そうですね。みなさんに喜んでいただくのも、すごく大事なんですけど、喜んでいただきながら、私も自分の心を浄化させていただいているので。ステージで胸が一杯になることも、本当にたくさんありますし、自分自身が心から楽しんでいるので、ライヴがなくなったらノー・ライフです(笑)」

(おわり)

取材・文/鈴木宏和
写真/野﨑 慧嗣

LIVE INFROMATION

小野リサ~Bossa World Standards~ 35th Anniversary Final

日時:2025320日(木・祝) 開場14:30/開演15:30
会場:東京 日本青年館ホール

小野リサ~Bossa World Standards~ 35th Anniversary Final

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