――デビュー50周年記念曲「妻よ…ありがとう」では作詞作曲を吉幾三さんが手掛けています。制作の経緯から伺えますか?

「二人で飲んでいた時に“もうすぐ50周年なんだ”って話をしたら“知ってるよ”って(笑)。だから記念曲を書いてほしいってその場で頼みました。“俺でいいのか?”と訊くので“お前じゃないと駄目なんだ”と言いまして。すると“どういう曲がいいんだ?”と言うので、俺もお前も女房がいなかったら頑張れていなかっただろうから、女房の歌を作ってほしいって返しました」

――50周年の節目を飾る曲に、例えば人生や生き様のような壮大なテーマではなく、これまで連れ添ってこられた伴侶を歌うということを選ばれたことに譲二さんの人柄を感じました。

「そうですか、嬉しいなぁ。自分のこれまでを振り返ってみると、デビューはしてもテレビにもラジオにも全く出られなかったような俺が、自分なりに頑張って頑張って、人並みのものを一つずつ手に入れられるようになってきたわけですけど、“頑張ったのは自分ひとりじゃなかったよな、女房がいたから俺はやって来られたんだよな”なんていう気持ちが非常に強くなってきたものですから、そういう歌を作ってほしいと吉に伝えました。そうしたら“任せてくれ!”って言葉が返ってきました。もちろん感謝を言いたい相手は女房だけじゃありません。ファンの皆さんはもちろん、お世話になったり支えていただいてりしてきた人は数え切れないくらいいますが、誰にとっても最も大切なものは家族だと思うんです。それは子供だって孫だって大事ですけど、今の俺があるのは一緒に歩いてきてくれた女房という存在があればこそですから、迷うことなく女房の歌をうたいたいと思いました。出来てきた曲を聴いて女房も“これ、吉さんの歌でもあるんじゃない?”って言ってましたけど、たぶんそうだと思うんです。だから作りやすかったんじゃないかという気がします。それだけ実感が込められているので聴いていても歌っていてもじーんとしちゃうんですよね。テレビ収録で歌った時なんか、普段は泣くことなんてないのに涙が出そうになりましたから」

――吉さんに任せて正解でしたね。

「それはもう!出会ってから40年以上、今じゃ家族ぐるみの付き合いですから、何でもわかってくれている親友です。今回の歌にしても任せてくれって言った時には、吉の中で曲がほとんど出来ていたような気がします。それくらい公私にわたって山本譲二のことを知ってくれていますから」

――同じ歌手でありながら、そこまで信頼できる相手がいるというのは素晴らしいことですね。

「本当にそう思います。同じ歌手ですからライバル意識ももちろんあってお前には負けないぞ!っていう気持ちもありますけど、例えば吉が何かの賞をもらうとか良いことがあったら心から祝福して、切磋琢磨し合いながら付き合ってこられました」

――レコーディングにはどのような気持ちで臨まれましたか?

「まず素直に吉の言葉を聞こうと思っていました。作家として、ここはこう歌ってほしいというようなことがきっとあるだろうと考えていましたから。そしてレコーディングの日、立ち会ってくれたんですが、酒が入っていました。吉は(笑)」

――えっ !?

「えっ !?って言いたくなるでしょうけど本当なんです。歌のことを話そうとすると脱線してとんでもない話をし始めたりして、面白いんだけどやかましいし先に進まなかったので、思わず“吉、もういいから帰れ!”って言ったんです。そうしたら“おお、帰るわ!”って嬉しそうに帰って行きました(笑)」

――実話とは思えないような話ですね。

「それが吉幾三という男なんですね。そして僕は帰っていくその背中を見て思ったんです、これは吉の気遣いだと。自分がいたら、あれこれ注文を付けたくなってしまうかも知れないから、いなくなってできるだけ山本が歌いたいようにうたわせてやりたいっていう、吉の思いやりだったんじゃないかと。酒は入ってましたけどそこまで酔っていたわけではなかったと思いますし、取り敢えず激励の意味と作家としての責任で顔だけ出して帰ってしまうという、優しさだっただろうと考えています」

――美しい話ですね。

「僕はそう思っているっていうことなんですけど、恐らく間違っていないだろうという気がします。それで吉は何の指示も出さずにいなくなってしまったので、レコーディングでは自分で考えてというか感じたまま、歌いたいようにうたわせてもらいました。その後、吉は出来上がった音を聴いているはずですが、まだ感想は届いていません。それより先に仕事で一緒になった川中美幸ちゃんが、僕が歌うのを聴いてスタッフに“この歌、本当にいい!”って言ってくれたって聞きました。嬉しかったですね」

――耳の肥えたプロの方の心に触れたということですから、この歌は多くの共感を集められるのではないかと期待できます。

「そう願いたいですね。別にヒットしそうだからということでテーマを選んだわけじゃありませんけど、世の中にはたくさんのご夫婦がいて、口には出さなくても奥さんへの感謝を胸にしまっている旦那さんも多いと思うんです」

――特に譲二さんの実感がこもった歌なので、なおさら共感を得やすいように思います。

「それは実感がこもりますよね。なんと言っても本当に自分自身の歌ですから。プロ歌手はたくさんいてもこんなにリアルな自分の歌を持てる歌い手は少ないんじゃないかな。幸せだと思います。最近はよく50周年を迎えて何をしますか?なんて質問をされるんですけど、何も考えてないんですよ、本当に。もうね「妻よ…ありがとう」「恋しき孫よ」、そして「言論の自由」という3曲を手に入れられただけで“俺は素晴らしい50周年を迎えられてるなぁ……”って感じてますから。歌手になりたいという強い気持ち以外には何もなかった僕が、浜圭介先生や師匠の北島、女房や吉、細川たかしといった親友、そしてヒット曲に恵まれながら、ここまでやって来られて、振り返ってみると確かに自分が歩んできた一つの道が出来ていたんですね。一歩一歩進んでいる時には自分の前に道が開けているなんて思ってもいなかったのに。それだけ夢中でがむしゃらに歌ってきたってことだと思うんですけど、自分の足跡はきちんと残っていたんだと思うと感慨深いものがありますね。

――出会いに恵まれた50年でしたね。

「その通りです。特に若い頃の僕なんて自分一人では何もできませんでしたから、浜先生がデビューまでのレールを全て敷いてくれて、僕はその上を黙々と進んだだけでした。走ってなんかいません。鈍行列車よりも遅かったと思います」

――1974年に伊達春樹の芸名で念願のデビューを果たし、76年には山本譲二に改名して再スタートを切りました。

「改名前に全日本歌謡選手権(1970年から73年まで放映されたオーディション番組。プロとアマの出場者5名が出場、審査により合格すると翌週も出場でき10週勝ち抜くとレコード会社との契約権や賞金、海外旅行が与えられた)に出場して10週勝ち抜き、五木ひろしさんから“これで君の人生は変わる”って言葉を掛けていただきましたけど何も変わらないじゃないか!って希望を失いかけましたね。それが30歳の時ですね。俺もいつまでもだらだらと売れない歌手をやってちゃいけない、どこかで区切りをつけるべきだろうって思っていたところで「みちのくひとり旅」と出合って一生懸命歌っているうちに有線から火が着きましてね。そこでようやく俺の人生にも陽が射してきたなって思えるようになりましたけど、それまでは安くて苦い酒を飲んでは悶々とする夜もたくさんありました。光熱費が払えなくてガスや電気を止められたこともあって、なんだか“あなたはもう人間をやめなさい”って宣告されたようできつかったですね。それでなんとかしなきゃって焦っている頃に女房と出会ったんです。当時、僕はボンミュージックっていう音楽出版社に所属していて歌の仕事なんか多くないから事務所で電話番をしたりしていたんです。そうしたらある日、事務所に誰かが入って来て、なんだかざわついて、こんな可愛い子がおるのか !?って思うような女の子がそこにいて。モデルをやっている子だと訊いて、その時は僕とは住む世界が違う、高嶺の花だと思ってましたね」

――ところが?

「そう!ところが……なんです。ある日、僕が弾き語りをしていた店にボンミュージックのディレクターが彼女を連れてやって来まして、歌い終わったところで一緒に飲もうって呼んでくれたんです。それで彼女とも話すようになってみたら、もっと澄ましてるんだろうと思ってたのに、とても気さくだったんですよ。それでその帰る時に“今度は一人で来てよ”って言っちゃったんですよ。そうしたらその何週間か後に本当に一人で来てくれて。ところがその時のスタイルが、女性なのにスリーピースで、おまけにチワワを入れたかごを持っていたんです。“こりゃすげぇ。こんな女の子見たことがない”って、あまりのかっこよさにカルチャーショックを受けてしまって、なんとかして付き合えないだろうかって本気になりました(笑)。ただ情熱はあったんだけど、自信はなかった。だってその頃の僕はその日暮らしで、本当に何もない人間でしたから」

――しかし幸いにしてお二人は交際するようになり、愛を育む過程で「みちのくひとり旅」のヒットに恵まれ、今日まで二人三脚で歩んで来られました。

「「妻よ…ありがとう」を歌いながら二人のこれまでを振り返ってるんですね。振り返るよりも先を見て進んできたことの方が多くて、初めは鈍行でしたけど「みちのく」に出合ってからは忙しくて忙しくて超特急のように走って来ましたから、今このタイミングに自分たちの歩いてきた道を振り返りながら、これからはできるだけゆっくりと足並みを揃えて進んで行きたいと思っています。ただ歌に関してはまだまだイケイケなところがあって、守りになんか入ってたまるか!っていうような気持ちがありますね」

――それが「言論の自由」に現れているように思います。

「野球をやっている時だって守備の人じゃありません。やっぱり打つのが好きでしたから、歌手になってからもずっとヒットを狙ってバットを振って来たんです。もう三振してもいいから思いっ切り振り抜きたいっていう気持ちで。それでここまで来ましたから、たぶんこれからもこのままだと思います」

――「言論の自由」は譲二さんのマネージャーである清水 心さんが、ご自身の好きなヘビーメタルと譲二さんの歌う演歌に共通点を見出したことがそもそもの発端だそうですが?

「僕がパーソナリティーを務めている「ジョージのぶち好きやけー!」というUSENのラジオ番組で、いつもゲストの方と写真を撮る時に指ハートを作っていたんです。そうしたらある時、メタル・ファンの間でポピュラーになっている“メロイックサインでお願いします”って言われるようになって、僕はそれがどういう意味なのかわからないまま言うことを聞いていたんですけど、次には“Tシャツを作りますから”って言うので“カッコイイのを頼むぞ”って言って、出来上がったのを見て、僕は思わず“何だよ、これは……”って(笑)」

――ヘビーメタルを知らない人からすると、ただただ不気味なTシャツでしょうね。

「ところがしばらくしたらそのTシャツが売れていると。まわりの人たちにも“売れてるんですってね”“面白いですね”なんて声が増えてきて、そうなると悪い気はしなくなってくるんですよね(笑)」

――以前にメタルをお聴きになっていたようなことは?

「ありません。ただうるさい、やかましい音楽だと思ってましたから。気が付いたら清水に乗せられていたという感じです」

――確かに清水さんのプロデューサーとしての手腕が見事に発揮された成果だと思いますが、元々譲二さんが「みちのくひとり旅」から「浪漫-ROMAN-」まで柔軟な音楽性もあるという点も大きかったと思います。

「先日、五木さんにお会いしたら“「言論の自由」面白いよ。この1曲で終わりじゃなくて、第2弾、3弾のメタルも出してよ”って言ってくださって嬉しかったですね」

――演歌に限らず幅広いジャンルの音楽を愛して、なおかつ研究もされている五木さんの言葉となれば、重みがありますね。

「まあ、嬉しいのは本当なんですけど、まだメタルには慣れていないから歌う方は大変なんです、入るタイミングが掴めなくてね。でも、吉がアレンジの打ち合わせの時に“鼓入れるぞ。鼓の音が終わったら歌い出せばいいから”って指示をくれたんです。そこまで考えていてくれたのかと思ったら、ありがたくて。“天才じゃん!”って言うしかないと思いましたね(笑)」

――清水さんの主導によるTシャツの製作、雑誌『ヤング・ギター』協力のもとに行われた「みちのく忘れ雪」のイントロをメタル調ギターで演奏するコンテストの開催もあって注目度が高まってきたところでのリリースですから発売前から大変な話題になりました。

「ありがたいですよ。いろいろなところで取り上げていただいていて。歌うこちら側は一生懸命やっていて決して遊びのつもりじゃありませんけど、聴く人観る人には面白がっていただいて大いに結構。聴いていただいているうちに面白いだけじゃないぞっていうところもわかっていただけると思うので、まずはたくさんの人に届いてほしいですからね。お蔭さまで発売前からかっこいい!とかすごい!なんていう声も聞こえてきてますので、自分でもどんな風に広がっていくのかな?なんて気になってますね」

――メロイックサインに始まる譲二さんのメタル化計画によって新たなファンが生まれているようですし、50周年という大きな節目を機にますます山本譲二というアーティストの活動が面白くなってきました。

「それもやっぱり50年歌い続けてきたからこそだと思います。「言論の自由」では、HATTALICAっていう、メタリカの、アジア唯一の公認トリビュートバンドがアレンジや演奏に参加してくれているんですけど、メンバーの一人が、今まで両親に“メタルなんてわけのわからないものをいつまっでやっているんだ?”って言われていたのが“譲二さんと共演しているのを知って、とても喜んで安心してくれたんです”なんて話してくれて。確かに面白いことになって来てるなというのは感じてます。この間も女房がネットにこんな記事が上がってるよって教えてくれたんですけど、僕がエレキギターを持っている写真と細川たかしの「男船」のジャケ写が並んでいて“この二人から目が離せない”ってタイトルが付いていたんです。それを見て、まさにメタル化計画が一人歩きを始めているのを感じました」

――一人歩きはヒットの大きな要素。今後が楽しみです。

「僕も楽しみです。メタル方面の取材を受けた時、演出としてサングラスを掛けてインタビューに応えて、そのまま撮影したんです。今まで演歌歌謡曲の世界で生きてきた中ではそんな恰好で取材してもらったことはありませんでしたから、やたら新鮮で、なんて自由なんだ!ってとても刺激を受けましたね。そしてメタルって楽しいって気持ちにもなりました(笑)」

――51年目の譲二さんに大いに期待しつつ、今後の活動を追っていきたいと思います。

「楽しみにしていてください。ただ、一つだけ、自分からウケを狙って奇をてらうような真似だけはしたくない。まあ、清水にさせられたらもう仕方ないですけどね(笑)」

――最後にこの記事を読んでくださっている山本譲二ファンと「ジョージのぶち好きやけー!」リスナーにメッセージを。

「本当にありがたいことに歌の世界で50周年を迎えられたことが嬉しくて、支えてくださった方々や応援してくれた皆さんに心から感謝しています。そしてもう一つ今の自分があるのは演歌のお蔭ですから、メタルをはじめいろいろなジャンルにも挑戦していきますけど、自分の根っこを大切にこれからも歌っていきますので、どうぞ引き続き山本譲二と「ジョージのぶち好きやけー!」を――吉幾三、細川たかしともども(笑)――よろしくお願いいたします!」

(おわり)

取材・文/永井 淳
写真/平野哲郎

USEN「元気はつらつ歌謡曲」プレゼンツ 山本譲二50周年祭り!イエーイ!LIVE INFO

2024年10月12日(土)TIAT SKY HALL(羽田空港第3旅客ターミナル内)

USENの演歌歌謡曲チャンネル「元気はつらつ歌謡曲」のパーソナリティ、山口ひろみ、北川かつみ、岩佐美咲、はやぶさ、おかゆ、中澤卓也が山本譲二のデビュー50周年を祝うスペシャルなライブイベント。

イープラス

山本譲二「妻よ…ありがとう」DISC INFO

2024年7月24日(水)発売
TECA-24036/1,500円(税込)
テイチクエンタテインメント

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