いい歌でありさえすれば必ずヒットする。
これが歌の本来あるべき姿です。しかし、現実は強力なタイアップが付いていなければ売れない時代です。いかがなものか?と思います。この風潮に私はあえてアンチテーゼを投げかけたい。いい歌は売れるべきだし、たくさんの人たちに聴いてもらいたい。そんな“音楽愛”が私のポリシーです。
音楽評論家の富澤一誠です。
いい歌を見つけて紹介するのが私の仕事です。今回は、こういう手があったのか?とそのアイデアの良さに感服させられるアルバムを2枚見つけました。1枚はYSP(ユリエスピー)の「p.s.YSP」、もう1枚はNoSP(ノーサディスティックピンク)の「NSPが好きすぎて」です。共に「さようなら」「夕暮れ時はさびしそう」などで知られるフォークグループ「NSP」の50周年を記念して作られたアルバムです。
宣伝文句を紹介しましょう。
YSPは―。NSP唯一の現役メンバー平賀和人が、70年代の音楽にハマっていた才女ゆりえとラジオ番組で初共演。ほどなく“ニセ親子”ユニットYSPがスタートし、遂にアルバムが完成した。
一方、NoSPの方は―。NSP50周年記念NSP平賀和人&the虎舞竜 高橋ジョージの期間限定ユニット。
YSP、NoSP、共に共通しているのは平賀和人。今回のキーマンはどうやら平賀和人さん。
ということで、今回のゲストはNSPのオリジナル・メンバーの平賀和人さんです。
★NSPとはどんなグループなのか?
YSP、NoSPは共にNSPに触発されて作られたユニットです。だとしたら、NSPとはどんなグループで、どのくらいすごいのか?その魅力とは何だったのでしょうか?それではNSPとは?とその魅力にせまってみたいと思います。
★最低10年間は続けられるグループにしたい!
1973年のことだと記憶しています。当時、ラジオの深夜放送を専門に扱う『深夜放送ファン』という雑誌がありました。その編集部での出来事でした。その日、私は原稿を届けに行きましたが、編集部員のIさんから「このテープ聴いてみてよ」と言われ、その場でテープを聴かされました。
そのテープはどうやら新人のフォークグループのデビュー曲らしかったのですが、Iさんをはじめとして編集部の人たちは「この曲、すごくいいじゃないか。たたみこむような説得力があるよ」とべたぼめでした。
そんな話し声を小耳にはさみながら、私はじっと聴き入っていました。そのグループ、確かに捨て難い味があるように感じられました。歌は決してうまくはありませんでした。演奏もハーモニーも抜群というほどではなかったのです。しかし、それでも心に残る不思議な味を秘めていました。そんなふうに感じたので、私はそのとき、こんなことを言ったものです。
「なんか不思議なグループですね。歌も演奏もちっともうまくはないが、それでも捨て難い味がある。このグループ、ひょっとしたら大変なグループになるんじゃないですか・・・」
そのグループはNSPで、そのテープの曲こそNSPのデビュー曲「さようなら」でした。
NSPは岩手県一関市で天野滋、中村貴之、平賀和人によって結成されました。3人とも一関高専に在学中でした。彼らは学園祭で活動する一方で、地元の岩手放送、NHKなどによく出演しました。そしてヤマハ主催の〈ポピュラー・ソング・コンテスト〉に出場し、東北地区大会でグランプリを受賞して全国大会にこまを進め、そこで「あせ」という曲で“優秀賞”に輝きました。それがきっかけでデビューを果たします。彼らをスカウトしたのはヤマハの萩原暁ディレクターでした。
「とにかく詞がよかった。田舎の独特な雰囲気を出していて哀愁があった。これはほかにはないグループだと思ったのでやることに決めました」
73年6月25日、地元で「あせ」よりも人気があったという理由で「さようなら」をデビュー曲として発売しました。
「初めは骨っぽい歌を出した方が熱い支持者がつくと判断したんです。ぼくはNSPを最低10年間は続けられるグループにしたいと思っていましたから・・・」
萩原さんの読みは結果として正しかったのです。
★「夕暮れ時はさびしそう」はNSPの切り札になる!
NSPは1973年6月に「さようなら」でデビューしました。はじめの1年間は右も左もわからない状況の中で、ただ与えられたスケジュールを一生懸命に消化するだけでした。シングル、アルバムともに2枚ずつ出しましたが、決して売れたとは言えませんでした。天野滋は述懐します。
「田舎(岩手県一関市)ではスターだったが、東京に来たらスターではなかった。アルバムを2枚作ったところで曲のストックもなくなってしまった。もう不安でしかたなかった。で、3人で話し合って、とにかくヒット曲を出そうという結論になったんです」
プロの世界は甘くない。そのことをひしひしと感じ取った彼らが悩んだことは当然と言えます。自分たちの将来を曲をヒットさせることに託したのもまた自然の道理でした。
「実は・・・『夕暮れ時はさびしそう』はぼくらの切り札になるとずっと前から思っていました。あの曲を作ったのは、まだぼくらが田舎にいるときだったんですが、あの曲はほかの曲とは反応が違ったんです。中村貴之君、平賀和人君に初めて聴かせたとき、ふたりは思わず笑ったんです。そのときから、ぼく、これは面白い反応を呼ぶ曲だなと意識しました。だから、セカンド・アルバムを作るとき曲がたりなくなって、この曲を入れようかという話が出たときも、嫌ですといってシングル用に取っておいたんです。だから、これが売れなかったら、3人で自転車をこいで田舎へ帰ろうと話していました」(天野)
いわばNSPの賭けでした。「夕暮れ時はさびしそう」は、74年7月10日に発売されました。さわやかな印象を与えたオカリナは担当ディレクターの萩原暁さんのアイデアでした。
「郷愁を出せる楽器はないかと考えてオカリナを思いついたんです」
結果的に彼らは賭けに勝つことができました。「夕暮れ時はさびしそう」が30万枚のヒットになったことにより、彼らも人気グループへと成長しました。天野が意図したように“ごめん ごめん”に代表されるたたみかけるような節まわしがインパクトとなってたくさんの人々の心をとらえたのでした。
「夕暮れ時はさびしそう」のヒットにより、田舎の情景を想起させ、それが聴く者の胸に郷愁を誘う“叙情派フォーク”が彼らのイメージとなり、売り物になったのです。
★NSPは失敗から“売れる”という極意をつかむ!
アーティストとディレクターの力関係は、ヒット曲が出た前後で逆転します。ヒット曲が出る前はディレクターが圧倒的に強いが、出た後はアーティストの発言力が増します。そして、人気と実績を背景に自分のやりたいようにやろうとするのです。
NSPの場合もそうでした。「夕暮れ時はさびしそう」「雨は似合わない」の連続ヒットで、彼らは大きな力を得ました。アルバムは売れるし、コンサートは、どこへ行っても満員となりました。自信を持った彼らは、「次のシングルは自分たちの好きな曲でいきたい」と思いはじめました。天野滋は語ります。
「『夕暮れ時はさびしそう』の次に『雨は似合わない』という曲を出したんですが、当然同じラインですね。シングルに関してはディレクターの発言力が強いんですが、その後に出した『お休みの風景』『ゆうやけ』では、わがままを言ってぼくらがやりたいようにやったんです」
萩原暁ディレクターは述懐します。
「彼らが自分たちでシングルの曲を決めたいというので、あえてやらせたんです。やりたい曲と売れる曲は違うということを、身をもってわからせようと思って・・・」
その結果は―。天野は言います。
「残念なことに2曲ともヒットしないではずれてしまった。本当にやばいなと思いました」
続いて、1976年4月25日に発売された「赤い糸の伝説」では、当然ながらディレクターの発言力が増します。
「『お休みの風景』『ゆうやけ』はどうもテーマが違うんじゃない。やはりNSPの場合“泣き”の要素がないとシングルとしてはまずい」と萩原さんは言ったといいます。それに対し、NSPは前2作が失敗しているだけに素直にうなずきました。もっともその背景には、彼ら自身ヒット曲が欲しいという事情があったのです。
「『夕暮れ時はさびしそう』がヒットしてから1年半ぐらいたっていたので、そろそろここらでヒット曲が欲しいと思っていました。ヒットがあればコンサートもやりやすいし、ぼくらのアルバムをできるだけたくさんの人に聴いてもらえる。そこで“泣き”を入れた極致ともいうべき“赤い糸の伝説”を作ったんです。草笛を使うというアイデアは萩原さんが出しました。そうしたら、これがヒットしまして・・・。やっぱり、モチはモチ屋だと思いました」と天野はしみじみと述懐しています。
彼らは失敗から“売れる”という極意をつかんだのです。
NSPを聴いてから、改めてYSP、NoSPを聴くとさらにドラマティックになると思います。YSP、NoSPは共に、こんなNSPもあってもいいのかな、と思わせる程のオリジナリティーにあふれている。YSP、NoSPはNSPの紛れもないファミリーユニットです
radio encore「富澤一誠のこんないい歌、聴かなきゃ損!」 第15回 NSP 平賀和人さん
「こんないい歌、聴かなきゃ損!(音声版)」第15回目のゲストにはNSP 平賀和人さんをお迎えしてお送りします。グループ結成時の秘話や楽曲制作時のエピソード、50周年を迎えた今の心境など…ここでしか聴くことができない貴重なお話が満載です。当時の風景が鮮やかによみがえる富澤一誠さんとのやり取りをぜひお楽しみください。
富澤一誠
1951年、長野県須坂市生まれ。70年、東大文Ⅲ入学。71年、在学中に音楽雑誌への投稿を機に音楽評論家として活動開始し、Jポップ専門の評論家として50年のキャリアを持つ。レコード大賞審査員、同アルバム賞委員長、同常任実行委員、日本作詩大賞審査委員長を歴任し、現在尚美学園大学副学長及び尚美ミュージックカレッジ専門学校客員教授なども務めている。また「わかり易いキャッチコピーを駆使して音楽を語る音楽評論家」としてラジオ・パーソナリティー、テレビ・コメンテーターとしても活躍中。現在FM NACK5〈Age Free Music!〉(毎週木曜日24時から25時オンエア)、InterFM〈富澤一誠のAge Free Music~大人の音楽〉(毎月最終水曜日25時から26時オンエア)パーソナリティー。また「松山千春・さすらいの青春」「さだまさし・終りなき夢」「俺の井上陽水」「フォーク名曲事典300曲」「『こころの旅』を歌いながら」「私の青春四小節~音楽を熱く語る!」など著書多数。