テリー・エリス、北村恵子(きたむら・けいこ)MOGI Folk Artディレクター
ビームスのロンドンオフィスで1986年からバイイングを担当。ダーク・ビッケンバーグやジョン・ガリアーノ、クリストファー・ネメスなど、当時の新進デザイナーを日本にいち早く紹介した。90年代中頃から「ビームス モダンリビング」で北欧家具や柳宗理のバタフライスツールなどを日本市場に改めて紹介。2003年に「フェニカ)」を立ち上げ、日本や世界に伝わる伝統的な手仕事のものの良さを啓発する。22年に独立。
柳宗理との出会いから始まった「民藝」への取り組み
木とガラスの扉を開けると、予想していたよりも奥行きのある空間が伸び、何だか心地良い。両サイドの壁面に連なる什器はラック以外は木製で、李朝の箪笥があったり、北欧デザインのキャビネットやアフリカやインドの家具もあったり。かと思えば、無印良品の棚に商品が陳列されていたりもする。モノクロの市松模様が配された入り口前の床は、ビームス時代にテリー・エリスさんと北村恵子さんが暮らしたロンドンの家の浴室を多治見焼のタイルで再現したものだとか。そこから北海道のキハダを張った階段を昇ると、屋久島杉の床が奥へと続く。壁面には和紙の壁紙があしらわれていたり、試着室のカーテンはカモフラージュ柄に織った久留米絣だったりと、聞けば一つひとつの調度にストーリーがある。並ぶ商品は洋服や器、雑貨など様々で、新しいものもあればビンテージ物もあり、オリジナルアイテムもある。多様なプロダクトが混在しながら調和している空間は、蒐集好きな住人がお気に入りの品々を選びやすく整えた部屋のようでもある。
ジャンルレスなミクスチャーは「モギ フォークアート」の大きな特徴だが、その取り組みは1994年に立ち上げた「ビームス モダンリビング」に始まった。当時、エリスさんと北村さんはビームス ロンドンオフィスのバイヤーとして、パリ、ミラノ、フィレンツェ、ヘルシンキ、ストックホルム……ヨーロッパを中心に展示会を回り、デビューしたばかりのジョン・ガリアーノやダーク・ビッケンバーグなどを発掘し、日本市場に紹介していた。
その中で、「自分たちも長いことロンドンで暮らし、生活にまつわるものに対する見方が変わってきた」と北山さんは話す。「英国の家は、借りると家具も食器も付いてくるんですよ。引越すだけで生活ができるので便利ではあるんですけど、センスが良いかと言えばそうでもなくて。それで家具に興味が湧いたんですね。北欧のデザインやアメリカのミッドセンチュリーモダンのデザインの家具を徐々に揃え、備え付けの家具と混ぜて生活をするようになった」。ビームスは創業して15年ほどが経ち、当初からの顧客は結婚したり、子供が生まれたり、家を買ったりと、ライフスタイルが変わってきていた時期でもあった。「洋服も好きだけど、家具やインテリアなども揃えれば、興味を持って店に通い続けてくれるのではないかと思った」と、洋服や家具、インテリアを融合したライフスタイルショップを構想した。
アメリカのミッドセンチュリーの家具に関してはすでに専門のショップが東京に2店舗あり、「リスペクトしていた。一から築き上げてきたものに手を出すのは嫌だった」ことから扱わず、北欧のデザインと「日本に店を出すのなら」と日本のデザインをミックスすることを決めた。リサーチを重ねると、海外のデザイン関連の書籍や雑誌に頻出する名前があった。1940年代に「民藝」ブームを起こした柳宗悦の子息で、プロダクトデザイナーとして数々の銘品を生み出した柳宗理だった。彼が50年代にデザインした「バタフライスツール」に感銘を受けた二人は、ぜひ新しい店で取り扱いたいと思った。そこで何と、当時、柳が館長を務めていた日本民藝館を訪ね、直接交渉したのだ。「バタフライスツールなどの復刻をお願いしました。そのときに益子や沖縄や小鹿田などの焼物の産地を紹介され、ぜひ見て来なさいと。実際に産地に行って職人さんの仕事を見たら、すごく面白かったんですね。それで北欧のデザインと日本の民藝をミックスすることにしたんです」とエリスさんは振り返る。
しかし、ビームス モダンリビングは3年ほどは鳴かず飛ばずで、「ファッションの店でインテリアや器などライフスタイルにまつわるアイテムを販売することにまだお客様が慣れていなかったよう」だった。やがて第2次北欧ブームが起こり客足は活発化したが、当時、北欧好きな人たちに民藝は響かなかったという。「私たちは北欧と日本のプロダクトを混ぜ合わせた生活をしていたので、面白いのに残念だなあと。それでいったんレーベルを分けたんです。モダンリビングは北欧のデザインに絞り込み、日本の手仕事に関しては『フェニカ』というレーベルを立ち上げました」。それが97年のこと。なかなか芽が出なかった期間も、フェニカが扱う日本の手仕事は社内のスタッフが興味を持ち、その友人たちが買い求めに来たり、特にバタフライスツールは海外での認知度が高いため外国人客の買い上げが多くあり、店の認知度は徐々に高まっていった。さらに時が過ぎて「2000年頃になるとミックスもありかなっていう人たちが増えてきて、03年にモダンリビングをフェニカに統合」した。
作り手・ブランドの背景を生かし、「MOGI」の視点で新たな価値を生む
柳宗理との出会い以来、エリスさんと北村さんは作り手と直接会い、コミュニケーションを繰り返し、実際に自分たちが生活の中で使って本当に薦められると実感したものだけを販売するというスタイルを採ってきた。単に買い付けるだけでなく、自分たちが使いたいと思うもの、市場に無いものを製作依頼することも少なくない。
「みなさんが素晴らしい仕事をしているのですが、私たちが関わり始めた頃の民藝はお年寄りのものになっていました。今の生活で使いたくなるデザインとは切り離されていたんです」とエリスさん。そこで自分たちが思い描いているイメージを伝え、互いにキャッチボールしながらプロダクトへと具現化していくようになった。「作り手も最初は私たちの話に半信半疑で、ほとんどが『うーん』ってなってしまう。次第に打ち解けてきて『やってみましょう』となり、私たちの意図を絵に描いてもらったり、私たちからはイメージが近いデザインの写真を持って行ったり、何度もやりとりします。アナログなんですけど、ちゃんと通ってくれているということで信頼してもらえるんですね。そしてサンプルを作ると『案外、いいものですね』と。そう言ってもらえたときが嬉しい」と北山さん。モダンリビング、フェニカを通じて全国の作り手とつながり、モギ フォークアートを出店してからも新たな出会いを求め、店休日には各地を飛び回っているという。
特に別注が多いのは陶器だ。例えば、鳥取の因州・中井窯とは同窯が得意とする染め分け皿を製作。色が切り替わる際(きわ)のにじみが味わい深く、緩やかな曲線を描く。「ゆるゆる3色」というネーミングもユニークだ。「ジグザグ飯碗」は、かつて沖縄の陶芸家が手掛け、現在は作られていないデザイン。沖縄で陶芸を学んだ益子のキマノ陶器の職人と共に、益子の土を使い復刻した。北海道から沖縄まで窯元の技法や色柄などの個性を生かし、二人の視点を入れてデザイン性と温かみを備えた品々へと作り込む。そんな器たちが店内の棚やテーブルにずらりと並び、その量もまた選び応えがある。
フェニカ時代の14年に発表してヒットした「Indigo Kokshi(インディゴこけし)」も健在だ。宮城伝統こけしを生産する仙台木地製作所と共同制作したもの。こけしには「青」が使われていなかったことに着目し、ファッションと密接な関係にあるインディゴで絵付けした。デニムのように色の経年変化を楽しめ、自宅のインテリア、ギフトとしても好評だ。
洋服はオープン時には品揃えの半分以上がビンテージ物だったが、「古着の街と言われる高円寺だけあってかなり動いた」。現在は「東洋エンタープライズ」や「HAVERSACK(ハヴァーサック)」、「ts(s)(ティーエスエス)」、「Sanca(サンカ)」、「nessesary or unnessesary(ネセサリー オア アンネセサリー)」など国内ブランドを軸とするセレクト、別注によるオリジナルアイテムを中心に構成し、ビンテージも扱う。
オリジナルウェアでは、店が在る「KOENJI」とエリスさんの出身地「JAMAICA」の文字をプリントしたTシャツやスエットが定番人気。ボトムではルーズフィットのワークパンツ「MOGI 40’s US Fatigue Pants(モギ 40’s ユーエスフィギュアパンツ)」をチェックしたい。ライトウェイトのコットンヘリンボーンは洗うたびに素材感が増し、ビンテージの味わいを楽しめる。インドのブロックプリントを施したプルオーバーや、西アフリカの民族的衣服「ダシキ」をベースに様々な絞りのパターンを藍の濃淡で表現したメイド・イン・ジャパンのダシキシャツとのコーディネートがお薦めだ。
冬場のアイテムだが、アメリカのダウンウェアブランド「ROCKY MOUNTAIN FEATHERBED(ロッキーマウンテン フェザーベッド)」に別注したダウンベストも面白い。本家はボディのナイロンとヨークのレザーが特徴で、ボタンで開閉するベストだが、モギでは山形の産地でデッドストックになっていた出羽木綿の着尺をボディに使い、ヨークにはロッキーマウンテン社のナイロンを施し、リバーシブルに仕上げた。他にも、帽子は全てオリジナルで製作し、鞄はキャンバスバッグの老舗「松野屋」と協業した日本製のトートバッグ、靴は「ムーンスター」と協業したトリコロールのスニーカーなども揃う。
1点1点のプロダクトにストーリーがあるだけでなく、その価値を適正価格で販売することを重視している。「セールはしない」こともモギ フォークアートの姿勢を物語っている。
ギャラリーショップも出店、民藝の「今」「これから」を提案
モギ フォークアートの出店は、日本に滞在していたときに英国がコロナ禍でロックダウンになり、戻れなくなってしまったことに端を発する。「落ち着くまで日本に住むことにしたのですが、なかなか収束しなくて。高円寺はもともと私たちが好きな街で、特にエリスはオリジナルウェアのアイデアソースになる古着や中古レコードを探しに、20年以上通っていました。界隈のお店の人たちとも知り合いだし、下町っぽさが残っていて面白い。それで高円寺に一時的に住むことにしたんです」と北村さん。ところが、滞在ビザの延長を繰り返しているうちに数年が経ち、定年退職の時期が迫っていた。「私たちは店の品揃えをするイオ峰、30年以上にわたり、世界各地の手仕事を蒐集してきました。日本に住むなら、それらを紹介する場を作ろうと、高円寺にモギ フォークアートを出店したんです」。
コレクションにはアフリカの部族の仮面やグアテマラのポンチョ、アイヌの木彫り、日本の東北地方の蓑など世界中の民藝がある。それぞれが生活の中で使うFolk Craftとして作られたものだが、今やアートとも呼べる価値を備えている。そこで土地ごとの人々の暮らしの中から生まれたFolk Artを店名に採用し、エリスさんの母親の旧姓であるMOGIと組み合わせた。22年のオープン以来、ファッション好き、ビンテージ好き、クラフト好きなどが世代を問わず訪れ、「海外のビンテージコレクターなどによるSNSでの発信もあり、外国人客もすごく多い」。訪日外国人客の間では古着や音楽などのカルチャーを通じて高円寺への注目度が高まり、街そのものを訪れる人が増えているという。
週末や祝日にはかなり混み合うため、作家物や1点物などを落ち着いてじっくりと見ることができる場として、今年4月にギャラリーショップ「MOGI&MOGI Gallery Shop(モギ アンド モギ ギャラリーショップ)」を同じ通りの約100m先に出店した。作家に焦点を当てた展示会を年に3回ほど開催し、各作家の世界観を表現していく。他の時期にはエリスさんと北村さんが編集した企画展を行う。オープニングでは陶芸家の設楽洋子にフィーチャー。70年代から益子で活動し、益子の自然が育んだ土や釉薬で表現された約60点の作品を展示・販売した。7月6日から8月19日には「沖縄」をテーマに、エリスさんと北村さんが30年以上にわたり蒐集してきたコレクションから、焼き物、染めや織物、琉球ガラスなど約200点を展示・販売する。
二人の活動はますます広がりを見せている。現在の民藝ブームに大きな役割を果たしてきたことが評価され、今年4月から12月まで世田谷美術館を皮切りに富山、名古屋、福岡を巡回する展覧会「民藝 MINGEI—美は暮らしのなかにある」で、「これからの民藝スタイル」を提案するインスタレーションを担当。本展では、柳宗悦が暮らしの中で民藝を生かす手法を提示するために1941年に開催した「生活展」の再現と、柳らが民藝運動を展開した時代の国内産地で作られた衣・食・住に関わる民藝の品々の展示、そして国内5産地の「これまで」と「現在」に焦点を当てた民藝の品々と作り手の紹介があり、エリスさんと北村さんによる「これから」がある。ビームス時代に依頼を受けたが、コロナ禍で開催の延期が続き、今年ようやく実現した。インスタレーションのほか、特設ショップでモギがセレクト、別注したプロダクトの販売も行う。
ネットでどこにいても欲しいものや情報を探せる今、そこに行かなければ体感できない価値を発信するモギ フォークアート。2年前にできたばかりなのに、以前からあるように感じられる。新作の民藝のような味わいのあるショップだ。
写真/野﨑慧嗣、モギ フォークアート提供
取材・文/久保雅裕
久保雅裕(くぼ まさひろ)encoremodeコントリビューティングエディターウェブサイト「Journal Cubocci(ジュルナル・クボッチ)」編集長。元杉野服飾大学特任教授。東京ファッションデザイナー協議会 代表理事・議長。繊研新聞社在籍時にフリーペーパー「senken h(センケン アッシュ)」を創刊。同誌編集長、パリ支局長などを歴任し、現在はフリージャーナリスト。コンサルティング、マーケティングも手掛ける。2019年、encoremodeコントリビューティングエディターに就任。