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「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」by SMART USEN
公式日程に90を超えるブランドが参加した今季のパリコレクションは、パンデミックを避けるため完全にデジタル化されてしまった。
パリコレを国内に居ながらにしてインターネット上で取材するのが最早日常ということなのか。
ブランドによっては、服と舞台造作や演出効果の主従関係にふと疑問を感じる動画もあったが、積極的に映像表現の利点を活かそうとする試みが「物語のある服」を生み出し、時節柄、それが我々にとって一種のカタルシスとなり、こわばった魂を解き放ち、前に進もうとする気持ちを刺激する活力になったことは確かだ。
いかなる物語も語る行為があって初めて存在するが、物語がたんなる話であった例(ためし)はない。デザイナーたちは自ら描く世界を、独自の物語のユートピアとして再構築しているようだ。
日常と非日常の境界を曖昧にすることで極上のファンタジーを生み出すのがファッションショーの持つ一つの特質である。だから、実際のショーと仮構のショー空間(映像)との相違(巧拙)を云々するよりは、今まさに展開されている物語を臆することなく受け入れるのが肝心なことだと思う。
喩(たと)えていえば、これはメビウスの輪のようなもので、メビウスの輪の持つ、裏を辿っていけば表になり、表を辿っていけば裏になる、といった誰もが経験する、それなりの仕掛けをまざまざと見せ付けられる。
そんな印象を、各々の意匠を凝らした動画から受けるのである。細長いテープを一捻りして、端と端を繋ぎ止め、そうすると、アッという間にメビウスの輪が完成する。
この紙の輪の真ん中に鋏(はさみ)を入れて辿りながら、二つの輪を拵(こしら)えようとしても、もう一回り大きなメビウスの輪が出来るだけで、紙の輪は永遠に二つに分けることが出来ない。この輪に秘められた構造(観念的な思索とでもいおうか)を云々するよりは、その仕掛けの妙を理屈抜きに享受することが今は得策であろう。
つまり、ショーに代わる映像表現は、虚実皮膜の間を一層追求するに最適な手段でもあるのだ(それでも尚、筆者は実際のショーの可能性に重きを置いているのだけれど)。
物語は絶えず第三者によって再創造され、新たな命が吹き込まれる。今季の「ディオール」がその好例だろう。
ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」や廻廊の荘厳な空間を舞台に選んだマリア・グラツィア・キウリは、時空次元を感じさせないファンタジーを描出している。
シャルル・ペローの『赤頭巾』やルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』などの童話が着想だが、この幻想の世界は、マリア・グラツィア・キウリが明快に言明する現代女性のフェミニンな感性による新たな自己認識の芽生えに裏打ちされている。
玩具の兵隊の制服は上品なカシミヤ仕立てのコートに姿を変え、ケープやレインコートはどれもフードを伴っている。
御伽噺や童話など、幼少期の記憶に作り手はインスパイアされているが、実際の作品群は、成熟したスタイルに根差した、優雅な美しさと激しさが交錯するビターな味付けに仕上がっている。
シルヴィア・ジャムブローネによる限定インスタレーション(「鏡の間」の鏡を隠すためのミラーを制作。メタルで縁取られたオブジェの鏡の部分はワックスでアレンジされ、棘(いばら)があしらわれている)と、シャロン・エイアルが振り付けた神秘的なパフォーマンスが幻想的な物語に深みを与えていた。
時空を超えた物語という点では、「ルイ・ヴィトン」も個性的なアプローチを見せている。
「旅の真髄(こころ)」の精神をモノ作りの拠り所とするメゾンは、今季は古代ギリシャ・ローマ世界の、まさに美の哲学が開花した絶頂期に旅している。
パンデミックにより一時閉鎖されているルーブル美術館(ニコラ・ジェスキエールが手掛ける「ルイ・ヴィトン」にとってルーブル宮は馴染みの深い会場である)のミケランジェロ・ギャラリーとギャラリー・ダリュという壮観な空間を今季の舞台とした。
ニコラ・ジェスキエールは、古代ギリシャ、エトルリア、ローマ彫刻の数々の傑作した美と創造的な対話を試みている。
夢とも現とも判別し難い特異な世界へ入っていく幻想的な物語へと展開していくのは、そこに原初の物語(古典主義や古代ローマの遺産)に対するニコラ・ジェスキエールが自らの懐に仕舞い込んだファンタジーがあるからに他ならない。
今季は、1940年にピエロ・フォルナセッティがミラノに創業したアトリエと協業。
建物、錠前、鍵やポートレートといったフォルナセッティゆかりのモチーフが最新の技法を駆使して再現され、実験的伝統主義という両者の共通意識が魔術的で幻想的空間を作り出している。
今季の協業は、物語の構造からいえば、決して単純な幻想譚(たん)ではない。
物語の語りを、言語作用(革新的な技術)を通して考究するファッション版「物語学」といっても過言ではないだろう。
コレクションノートに記されたニコラ・ジェスキエールの言葉を以下に引用しておく。
「このコラボレーションでは、フォルナセッティのアーチスティックな世界が放ち続ける現代性を呼び起こす作品を用いたいと思いました。フォルナセッティの不朽の作品群は、目覚ましい手描き技法と魔術的世界観の実現であり、フォルナセッティが古典主義や古代ローマの遺産を再探求・再加工して歴史的画像に新たな引用法を加えるその手法に特に惹かれます。過去と現在と未来を同時に想起させるファッションの能力を常に愛してきたデザイナーとして、私はこのクリエーティブな"パリンプセスト"に新たな諸層を加えたいと思いました。フォルナセッティのアーカイブを探ることには考古学的な発掘のようなワクワク感がありました。過去の描画を探して見付け出すことは、現在と未来へ向けて"ルイ・ヴィトン"に新たな生命を吹き込むことに繋がります」。
さて、新作発表の舞台でいえば、深更のパリの街角とか広大な砂漠とか長閑な草原とか富士山の麓の高原とか、様々なロケーション(招待客のいない空間で行なうショー形式を撮影する場所)が採用されるのもパンデミックの影響である。
ミウッチャ・プラダが今季の「ミュウミュウ」の舞台に選んだのは東アルプス山脈だった。
「ミュウミュウ マウンテンクラブ」と自ら名付けている。
バックドロップに白銀の世界を抱くショーは、未知のゴールに向かって冒険する女性たちの果敢な勇気を想起させるのものだが、その一方で、実用性を奇抜な物語のユートピアとして再構築している。
このあたりの捻りがこのブランドの真骨頂であろう。
防寒のための中綿入り素材、エレガントなシルクサテンやレース、量感のあるフェークファー、下着を思わせる淡い色使い、誇張された形など、強烈な対比より生まれるゾクゾクするような違和感を力業でブランドの個性として収めている。
奔放無頼でキッチュな「ミュウミュウ」の精神は、強靭(じん)さと脆(もろ)さ、勇気と攻撃性を秘めた特異なファンタジーに結実している。
他方「アンリアレイジ」は、同じくフィクション(実際のショーでは実現不可能という意味)を味方に付けていても、ブランド名が暗示するところの、日常に於ける盲点を創作の起点に据え、単純明快なイリュージョンを披露。
身の回りにある虚実を得意のファンタジーに落とし込んだ。
幼少期に鉄棒遊びをした折に初めて遭遇した、あの地面と青空が反転した景色。あの衝撃的な瞬間を思い出して欲しい。
主題は「天と地」。
重力が反転し、恰(あたか)も服のドレープや模様が「地」より「天」へ引き寄せられる様子を映像で表現。
床と天井の両面をキャットウオークに見立て、仕掛けと称されるものに必要不可欠な遊びの要素を存分に盛り込んでいる。
こうした天地逆転の発想は、撮影時のトリックのみならず、水玉や花柄、市松模様や千鳥格子などのピッチがすべて重力に逆らって「地」から「天」に向かうようにデザインされ、服の細部も本来あるべき場所から恣意的に配置し直され、靴紐やリボンや襟までもが逆立つように設計されている(怒髪天を突くようなヘアも然り)。
コロナ禍は新作発表の手段のみならず、発表時期の見直し(前述した通り個性的なロケーションを含めてだけれど)にも影響を与えている。
20年上期に「サンローラン」は、21年春夏のメンズとウィメンズのショーは、通常のファッションウイーク会期中に発表しない旨をアナウンス。
実際、メンズを昨年9月9日、ウィメンズを同12月15日に、それぞれ新作を収めた動画を配信している(21-22年秋冬シーズンも独自の日程で発表するのだろう)。
椿(ちん)事はまだある。
「バレンシアガ」が、同10月にデジタル動画にて公開した2021年春夏プレコレクションを拡張、発展させた21-22年秋冬(男女混合)を同12月6日に発表した。
そのために特別に制作したビデオゲーム(参加型)をメディアに選んだあたりがなんともデムナ・ヴァザリアらしい(登場するキャラクターが最新作を纏(まと)っている)。
(おわり)
取材・文/麥田俊一