はっぴいえんどの終焉と70年代
1970年8月リリースの1stアルバム『はっぴいえんど』(通称『ゆでめん』)、そして「風をあつめて」などが収録された、バンドのパブリックイメージとも言える、1971年11月リリースの2ndアルバム『風街ろまん』。わずか1年弱のインターバルを経て、バンドの表現はより研ぎ澄まされていった。それは少なからず、時代の反発も受けたようだ。
「〈しんしんしん〉では“そんなバカな、誰が殺した”と糾弾してみたり、〈春よ来い〉では、“この状況を打開するために田舎に帰らずとどまるぞ”といったふうに、『ゆでめん』収録の楽曲は、非常に精神が昂ぶっていて、言葉づかいが激しい。それが『風街ろまん』で “ですます”調になる。この転換を――大きな変化みたいなものを無意識に感じていたんだと思いますが――ファンは受け止めた。でも当時、はっぴいえんどに対するとまどいっていうのも確かにありました。内田裕也さんをはじめ、いろんな人たちからそれは提示されたわけですが、無理もないと思います。2枚目でいきなり“ですます”調に言葉が変わるバンドがあるか、と(笑)。『ゆでめん』は、「ミュージックマガジン」(当時は「ニューミュージックマガジン」)で設立されたばかりのディスク大賞で1位だった。『風街ろまん』は5位か……6位かな? だから、評価はすごく分かれていたんです。コアファンはそれを自然な流れとして受け止めたんだけど、外から見たら、何か得体のしれない転向をしている。そして、それは実際そうなわけです。しかし、我々ファンはその変化を物凄く素直に、身体で受けとめたんですね。その“急激な変化の受け入れ”こそが、1971年の特徴だし、はっぴいえんどを一生で受け入れるきっかけになっている」
そして、1972年10月にL.A.でレコーディングされた3rdアルバム『HAPPY END』は、翌1973年2月に発売された。
「『HAPPY END』は……まずこのジャケットをどう思うのかっていうことですよね。“僕らがいちばん欲しいものが、ついに来た”と当時、僕らは思いました。GSなんかも聴いていたから、ああいう派手なものが好きなんです。あと、アメリカ文化が大好きなので、そういう肌触りを含めて、 “はっぴいえんどが、ついにメジャー感に踏み込んだ”って思ったものです。資料を読むと、あのジャケットは、〈WORKSHOP MU!!(※)〉で10分で作られたということで、(後にプラスティックスを結成する)立花ハジメさんが、それを届けるために使い走りをしたそうです。そのスピード感と、あとは裏面が全部、緑。シンプルすぎて、普通ならがっかりするかもしれないですが、それをキャッチ―なものとして受け止めましたし、ビートルズのホワイトアルバムみたいな、そういう印象がありますよね」
『HAPPY END』制作時にはっぴいえんどは解散状態であり、その影響からか前の2枚のアルバムに比べ、松本隆による作詞の数は少ない。
「細野さんの詞の特徴は、リズムセクションと重なる言葉の韻が気持ちいいんです。松本さんの詞が少ないことは物足りなく思いましたが、バンドの状況をそれなりに思いやってましたね。キャラメルママを作るというニュースも割と早く伝わってきていたし、サウンドチームみたいなものを作り、いろんな人をプロデュースしていく……それに対する期待が高まっていた。とにかく、はっぴいえんどは『風街ろまん』から急カーブ描くように、サウンド指向になっていったんですね。『ゆでめん』から『風街ろまん』、そして『HAPPY END』に至っていくカーブは、子ども心には受容できてました。でも、年上のファンがどんどん落ちこぼれていくんです。『ゆでめん』は好きだけど『風街ろまん』はダメ、とか、『風街ろまん』まではいいけど、『HAPPY END』のポップさにはついていけない、とか……そういう感想を持ったいわゆる当時“大人の(日本の)ロックファン”は結構いた気がします。はっぴいえんどは、70年代全般のカルチャーを先取りで備えた人達だったので、60年代末から70年代を見ていた人たちにとっては、ついていけないものがあったのかもしれない。
『HAPPY END』の「明日あたりはきっと春」の曲の歌詞に、僕はすごく思い入れがあって。はっぴいえんどが、ついに“春”を歌うようになった。はっぴいえんどに春が来た、自分にも春がきたらいいな……と思うんだけど、実は僕にとって、この「明日あたりはきっと春」の春は、ちょっと寒いんです。冬は、だんだん遠くなるけど、確実にこの場所に刻まれていて、まだ寒さは残っている。全くもって個人的なことなんですが、自殺をしてしまう人を、視界に入れながら聴いていたんですね。そのこともあり。この極私的な自分の世界のことであるんだけど、やっぱりこれは、自分だけのことだけじゃないと思えるのは、(1回目でも話題にのぼった)当時の“シティ”的なものへの東京の変貌、これから東京がどんどん洗練されていくよ、っていうのは、冷たすぎるんですよ。あれだけ熱かった……アヴァンギャルドなもの、例えば演劇だとしたら、寺山修二にしろ、唐十郎にしろ、ストリートで展開していたものが、キレイな箱モノのホールができたとして、“そこで演れるようになって良かったね”で終わるのか?っていう問題ですよね。まったく終わらない。混乱の60年代末には、温もりというか、熱気というか、本当の意味でのポテンシャルがあった。それが失われているわけだから。「明日あたりはきっと春」の風景は、季節は春に向かっているんだけど、何か、喪失感を含んだものなんです。はっぴいえんどのいい所は、そういうものも、さりげなく存在を示してあるところ。無理をして“これからは春だぞ”とか。“これからは都会的でかっこいいぞ”っていうものではない。“ただそういう風景がみえる”っていう。この「明日あたりはきっと春」は、ぼくにとっては、ある種、都会的なる70年代っていうものの、うすら寒さが入ってるんです。その中で挫折して死んでいく人もいたっていう状況を含めて」
(つづく)
※WORKSHOP MU!!
1970~76年にかけて活躍したデザイン集団。小坂忠、サディスティック・ミカバンド、はっぴいえんどなどのアルバム・ジャケットを手掛けた
プロフィール
サエキけんぞう(さえき・けんぞう)
ミュージシャン、作詞家、プロデューサー/1958年千葉県生まれ。〈ハルメンズ〉のメンバーとしてデビュー。その後、窪田晴男らと結成した〈パール兄弟〉で活動。『ロックとメディアと社会』(新泉社)、『ロックの闘い1965-1985』など著書も多数あり、様々なメディアで活躍中。(オフィシャルHP ⇒オフィシャルHP)