日本を代表するキーボード奏者であり、作曲家・編曲家・SF作家でもある、難波弘之
難波弘之がキングレコードに残した関連9作品が8/28(水)、同時サブスク/配信化決定!
このたび、難波弘之本人が各作品別の書き下ろしコメントを寄稿してくれた。
Profile (難波弘之 筆)
※公式サイトから引用
■幼少の頃
僕は、父がアコーディオンとジャズオルガンの奏者、母が声楽家という、いわゆる音楽一家の環境に育ちました。
父はたぶん、昭和30年頃、日本で初めて“ハモンド・オルガン”を個人で購入したのではないかと思います。というのは、僕の3才くらいの時の、ハモンドを弾いている写真があるのです。父も母ももう亡くなっているのですが、父の遺品整理をしていたら、“メンソレータム”という薬で有名だった、近江兄弟社の1957年のカレンダーが出てきました。当時、近江兄弟社はキリスト教の布教活動をやっていて、教会にパイプオルガンの代用として“ハモンド・オルガン”を広めようということで、輸入代理店をやっていたようなのです。そのカレンダーの1番上にハモンド・オルガンのBー3の写真があり、「ハモンド輸入総代理店」と書かれていたので分かったというわけです。
母は、今はわりとポピュラーになったドビュッシーとかアーン、デュパルク、フォーレなどのフランス近代歌曲を歌っていました。それで母の伴奏をしていた人に付いて3歳のときからピアノを始めたのですが、何しろ昭和30年代ですから男の子がピアノを習うというのは非常に珍しいことだったので、とてもイヤでした。母が、クラシック至上主義だったので、歌謡曲を一切聴かない家でした。ですから当時流行っていた歌謡曲とか、ビートルズなども全く知らずに育ちました。学校で皆が「リンゴが好き」と言っているのを聴いて、ビートルズのメンバーのリンゴ・スターではなくて、果物の話だと思ったほど。
そんな環境にあっても、当時大ヒットした曲はやっぱり僕の耳にも入ってきました。坂本九の「上を向いて歩こう」とか、美空ひばりとか…。母もこの両人は「うまいわね」と誉めていました。
僕の家には当時、アメリカ軍の人が父にアコーディオンを習いに来たり、父がジョージ川口氏などと一緒に演奏していたので、よく電話がかかってきたり、ダークダックスや立川清登氏が母に声楽を習いに来たりしていました。ですからわりと音楽家の出入りのある、ちょっと変わった(恵まれた?)家庭だったと思います。でも僕自身、中学時代は音楽よりも、SFやミステリー、漫画など、今いわゆる“オタク”と呼ばれているものの、“元祖オタク”でした。今のコミケのはしりのような同人雑誌を作り、夢中になっていた、ファッション性ゼロの男の子でした。
■アマチュア時代
グループ・サウンズを聴いたときは「わぁ、こんなものがあるんだ…。」とびっくりしました。そしていきなり、サイケデリック、ニューロック、アートロック、プログレ…とロックに走ってしまったわけです。悪友が「バンドやろうや」ということで、高校1年のときにアマチュアのバンドを組んだのが始まりでした。神田の古本屋、古レコード屋や楽器店に出入りするオタクでした。
当時、最先端の音楽というと、ディープ・パープルや、レッド・ツェッペリンの1枚目が出たりしていた頃でしたから(年齢がバレますが…)、バンドでやっていたコピーもバニラ・ファッジとかジェスロ・タルとか、フランク・ザッパのマザーズ・オブ・インヴェンションとか、マウンテン、ザ・バンドとか…。当時のロックファンでも、相当な通でないと知らないような音楽をやって得意になっていました。そしてまた、ジャズ、ボサノバ、ソウル系を聴き出したのもこの頃です。今でいうフュージョン系のバンドと、ロック系のバンドを2つ掛け持ちで、大学時代までずっと続けていました。
勉強そっちのけでバンドをやっていた大学時代には、ヤマハの人から「君、うまいからキーボード・プレイヤーにならないか?」と誘われたり、また大村憲司や村上“ポンタ”秀一などがバックをやっていた赤い鳥という、フォークバンドなのに間奏でいきなり4ビートになったりするちょっと変わったバンドでキーボードを捜しているから、と誘われたりしました。でも、大学時代はサラリーマンになるつもりだったので、はっきりした返事をしないまま時が過ぎていきました。そのうちに、今でも活躍している笹塚の“ジョージ”という、とても変わったPAの人に「いいねぇ」といわれ、その後その人のところに出入りするようになったのです。そこには、シュガーベイブの頃の山下達郎や、山下洋輔などの音楽事務所がありました。その後、下北沢に金子マリというすごい女性ヴォーカルがいて、ギタリストのCharとスモーキー・メディスンというバンドをやっていると聞きました。偶然、僕は学園祭のステージでEL&Pなどをやっているときに、当時デビューしたばかりのアイドル太田裕美のバックで、金子マリと、今カシオペアのベーシストの鳴瀬喜博、ギタリストの中島正雄(今はビーイングの社長になってしまいましたが…)などがやってきたのです。そこで僕は、鳴瀬に声をかけられたのです。
■プロになって
「スモーキー・メディスンは解散するんで、新しいバンドをやりたい。一緒にどう?」という鳴瀬の誘いで組んだのが、金子マリとバックスバニーというバンドでした。その前に松崎しげると一緒にやったりもしましたが、レコードをはじめて出したバックスバニーが事実上のプロデビューということになります。大学4年の最後の試験のとき、ちょうどCBSソニーでバックスバニーのレコーディングをしていたのですが、そのまま就職をせずミュージシャンになってしまったわけなのです。
バックスバニーでは、ライブを含めてアルバムを3枚出しました。最初のアルバムはCD化されていませんが、「ライブ」と「シュート・ザ・ムーン」というアルバムは今、CDになっていますから、そこで当時の僕のプレイが聴けると思います。
途中からドラムが、元イエローのジョニー吉長(その後チャーとジョニー・ルイス&チャー、ピンク・クラウドを結成)になりました。最近ジョニーは、テレビ・ドラマに出ていい味を出していますね。「バックスバニー」を3年ぐらいやり、その後フリーになりました。
フリーのミュージシャンとしてのセッションと並行して、ソロ活動やバンドもやりつつ今日に至る―というわけです。
難波弘之作品別配信リンク:https://bio.to/hiroyuki_namba_king
『センス・オブ・ワンダー (+1)』 (1979年作品)
難波弘之
難波弘之の記念すべきデビュー・アルバム!
1.アルジャーノンに花束を
2.都市と星
3.ソラリスの陽のもとに
4.リング・ワールド
5.火星人ゴーホーム
6.夏への扉
7.地球の緑の丘
8.鋼鉄都市
9.虎よ!虎よ!
10.いちご色の窓
11.地球の長い午後
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