いい歌でありさえすれば必ずヒットする。
これが歌の本来あるべき姿です。しかし、現実は強力なタイアップが付いていなければ売れない時代です。いかがなものか?と思います。この風潮に私はあえてアンチテーゼを投げかけたい。いい歌は売れるべきだし、たくさんの人たちに聴いてもらいたい。そんな“音楽愛”が私のポリシーです。

 「こんないい歌、聴かなきゃ損!」

音楽評論家の富澤一誠です。いい歌を見つけて紹介するのが私の仕事です。「演歌・歌謡曲」でもない。「Jポップ」でもない。良質な大人の歌を「Age Free Music」と名づけて私は推奨していますが、キャリア45年を誇る沢田聖子さんはまさにAge Free Musicアーティストです。そこで今回は沢田聖子さんをゲストにお迎えして「大人の歌」の魅力にせまってみたいと思います。

★デビュー5年目の迷い?

「こんないい歌、聴かなきゃ損!」(音声版)では沢田聖子さんのキャリア45年にせまりますが、その折にヒントになる文章を見つけましたので、ぜひ読んでください。手前みそで恐縮ですが私が書いたコラムです。このコラム2本を読んでから音声版を聴いていただけると理解度がさらに深まると思います。

〈悩んで時間をつぶすより、思い通りに生きるほうがいい〉文・富澤一誠

(このままいったら、私はダメになる)
59年のこと、17歳でデビューしてから5年。沢田聖子は迷い始めていた。
“結婚することになりました”
友人から結婚式の招待状が届く。ついこの前も、子供が生まれたという話を聞いたばかりだった。
(結婚、子供……みんな変わっていく)
22歳。自分ひとりがとり残された気分になった。
コンサートや学園祭を中心に動いてきた。LPは7枚……そこそこに売れている。でもこれといって目立った動きはなかった。シングル・ヒットは1曲もない。
「それでも、今日がよければそれでいいって思ってた」
流されるがままの毎日。でも、まわりの友人は確かに変わっている。彼女たちには就職があり、そして結婚があった。
「友だちを見ててね、今日がよくても明日はどうするの? って考えるようになったのね。本当にデビュー以来、これといって大きな変化なんてなかったから」
彼女のデビュー。それはまったくの“偶然”から始まった。
高校2年の秋だった。突然、自宅の電話が鳴った。
『イルカの妹になりませんか?』
『エッ?』―。
生後11か月の赤ん坊から中学生まで、彼女は子役をやっていた。でも中学生の頃、
「太っちゃってやめたんです(笑)」
その後も、いちおうモデル・クラブに所属、パンフレットに顔をのせてはいた。
その頃、イルカのプロダクションは新人第1号を“イルカの妹”として売り出すため、オーディションを計画していたのだ。
「この子、どうかな?」
社長はいくつかのモデル・クラブのパンフレットから、ある女の子をピックアップした。
「ついでだから、このとなりの子も呼んでみようか」
その“ついでの子”が沢田聖子だった。
ところがオーディション当日「おはようございます」と事務所のドアを押したのは彼女だけ……本命の女の子は“仕事が入ったから”姿を見せなかった。
オーディション結果はひとりを除いて全員反対。当然だった。ピアノはダメ、歌もダメ……。
「太田裕美の『木綿のハンカチーフ』を歌ったんですけど、その1週間前から練習しただけで(笑)」
でも「彼女でいこう」そういった人間がひとりいた。社長だった。
「作詞も作曲も、全然経験なかったし、弾き語りもできなかった」
でも、そんなことはいってられない。もうデビューは決まってしまったのだ。
54年、春。沢田聖子は“イルカの妹”としてデビュー、ゼロからのスタートだった。
そして5年目の“迷い”―。季節と同じように、彼女の顔つきも考え方も変わった。
「それなのに私はずっと同じことをくり返していたんです」
(このままじゃいけない……)
でもどうやったらいいのか見当がつかない。遮二無二、彼女は手を出してみた。
8枚目のアルバムを出す。全曲を売れっ子の作詞家、作曲家に依頼した。何かが変わるかも知れない―そんな予測を彼女はたてた。
「でも、実際はとんでもなかった」
ステージの上でピアノに向かう。鍵盤から響く音色も、口づさむ言葉も人が作ったのだ。
「歌っているうちに、イヤでイヤでたまらなくなって……それに思い入れがないから、歌詞をすぐに忘れちゃって」
年明けて60年。次のアルバムは全曲自分で作った。
やった、という満足感。大人の雰囲気を漂わせた内容にも自信があった。でも―
“昔のかわいい雰囲気の方がよかった。大人なんて似合わない”
ひとりのファンからの手紙が彼女を再び迷わせた。
「今度は昔からのファンを逃がすのがこわくなって」
なにをやっても先がつまった。
(もうダメ! やるならやる。やめるならやめよう)
そこまで彼女は追い込まれた。
「これ、見てみようよ」
沈んでいるところにマネージャーが、彼女のコンサート・ビデオを持ってきた。
ピアノの前に座り、弾き語りで歌っている―“客”として自分を見ているうちに、心の中にいら立ちが生まれた。
「オーバーオールのジーンズ、トレーナー。ピアノの前から一歩も動かない。自分のステージが面白くなかったんです」
いつかステージでスカートをはこうとした。
(でも、似合わない……やめよう)
なんでもそうだった。自分で“沢田聖子はイルカの妹”というイメージを勝手に作りあげ、そのワクからはみ出さないようにしていた。
「だから、変わろうと思っても中途半端だったんです」
(殻を破ろう!)
もともと他の歌手のようにコンテストに勝ち抜いてシンガー・ソングライターになったわけではない。デビューだって“偶然”だった。
「失うものなんて何もない」
〈素直に生きてみよう 自分を信じることから始めよう 素直に愛してみよう 行きつく場所 恐れずに〉 (『ナチュラル』)
「悩んでも悩まなくても、時間がたつのは同じだもの。思い通りにやるのがいいに決まってる」
今回のツアー、彼女は自分で選んだスカートをはいている。
「BIG TOMORROW MUSIC COLUM 楽屋裏のスターたち 第65回」(1986年7月号)

もう1本のコラムもぜひ読んで下さい。沢田聖子の立ち位置がよくわかると思います。

富澤一誠選 沢田聖子/Singer Song Writer~APRICOT~(SAINT) 文・富澤一誠

沢田聖子のデビューはまったくの“偶然”から始まった。高校2年の秋だった。突然自宅の電話が鳴った。「イルカの妹になりませんか」。その頃イルカのプロダクションは新人第1号を“イルカの妹”として売り出すため、オーディションを計画していたのだ。結局合格して1979年5月にデビュー。高校3年生、17歳のときだった。早いものであれからもう42年が経ってしまったが、彼女はコロナ禍までは毎年全国で70本以上のライブ活動を続ける現役のキャリア・アーティストだった。
偶然デビューした彼女が現在もなお現役の第一線で活動できるのか? それはアーティストとして常に進化し続けているからだ。年齢と共に歌も生きているのか成長している。だから一度つかんだファンを離さないのだ。このアルバムは過去のオリジナル曲から14曲をセレクトしリアレンジを施したセルフカバーだが、現在の彼女のオリジナル・アルバムと言っても過言ではない。彼女の今の息吹きが歌にときめいていて新しい命が吹きこまれているからだ。歌は時代を超えて生き続けている。だから彼女は“現役”なのである。
(毎日新聞夕刊2021年7月20日発行)より。

45周年を迎えて、沢田聖子は何をしようとしているのか? どこに向かおうとしているのか? それを知るには彼女の45周年というキャリアを振り返るのがいいようです。過去から現在へつながるプロセスは明らかに未来を暗示しているからです。と同時にそれはあなた自身の軌跡でもあるのです。読んでから聴くか? それとも聴いてから読むか? あなた次第です。

<音声版>富澤一誠のこんないい歌、聴かなきゃ損! 第25回 沢田聖子さん

ライブ、リリースなど沢田聖子さんの最新情報はこちら

富澤一誠

1951年、長野県須坂市生まれ。70年、東大文Ⅲ入学。71年、在学中に音楽雑誌への投稿を機に音楽評論家として活動開始し、Jポップ専門の評論家として50年のキャリアを持つ。レコード大賞審査員、同アルバム賞委員長、同常任実行委員、日本作詩大賞審査委員長を歴任し、現在尚美学園大学名誉教授&客員教授なども務めている。また「わかり易いキャッチコピーを駆使して音楽を語る音楽評論家」としてラジオ・パーソナリティー、テレビ・コメンテーターとしても活躍中。現在FM NACK5〈Age Free Music!〉(毎週木曜日24時から25時オンエア)、InterFM〈富澤一誠のAge Free Music~大人の音楽〉(毎月最終水曜日25時から26時オンエア)パーソナリティー。また「松山千春・さすらいの青春」「さだまさし・終りなき夢」「俺の井上陽水」「フォーク名曲事典300曲」「『こころの旅』を歌いながら」「私の青春四小節~音楽を熱く語る!」など著書多数。

俺が言う!by富澤一誠

一覧へ戻る