向 千鶴(むこう・ちづる) ファッションジャーナリスト
横浜市出身。東京女子大学卒業。デニムアパレル会社エドウイン営業職、日本繊維新聞社記者を経て2000年にINFASパブリケーションズ入社。記者として主に国内外のデザイナーズブランドの取材を担当。2015 年に『WWDJAPAN』編集長に、2020年4月に執行役員『WWDJAPAN』編集統括サステナビリティ・ディレクターに就任。記者業務に加えて、ファッションスクールでの講義、省庁の有識者委員なども通じてファッション産業のサステナビリティ・シフトに尽力。2024年8月に独立し、CRANE&LOTUS設立。引き続き『WWDJAPAN』サステナビリティ・ディレクターを務めつつ、活動の領域を広げている。

変化が起きたら、背景を知りたい、誰かに伝えたい

石田 
向さんは30年以上にわたりファッション業界で活動してきました。もともとファッションが好きでこの業界を目指していたのですか。
向 
私自身はファッション好きというよりは、「ファッション業界人が好き」なんです。ファッションを仕事にしている人たちのどこまでも諦めない姿勢が好きなんですね。中学生の頃はオリーブ少女で、ユザワヤで生地を買ってきて服を作って、修学旅行に着て行ったりしていました。みんなにはドン引きされていましたが……。ファッションが好きといってもその程度です。
久保
十分、好きじゃないですか(笑)。普通は服を作ることまでしませんよ。
向 無邪気だったんでしょうね。物を作るということでは、中学生の頃は学級新聞を作る係をしていました。自分からみんなに会いに行って、「あそこで亀が冬眠から目を覚ましたよ」なんていう話を聞いたら、「亀が冬眠から目覚めました!」って伝えたい。そういうタイプなんですよ。
久保
その頃から記者のようなことをしていたんだ。
父親が新聞記者だったんです。父の背中を追っていたわけではないんですけど、今になってみると影響を受けていたのかなあとは思います。亀が冬眠から目覚めたという話もそうですが、世の中に何かしらの変化が起きたときに、その背景を知りたい、誰かに伝えたい。新しいものに何かを嗅ぎ取りたい性質なんですね。ファッション業界の取材をするようになってからも、この先に行けば何かがあるだろうと常に探検していきたい気持ちがあります。ファッションは社会の変化が表出しやすいじゃないですか。変化を見つけて「今、みんなはこういう気分みたいだよ」と伝えたい気持ちとファッションは相性が合うのだと思います。

エドウインの営業職時代に学んだ「1cmの違い」

久保
大学は東京女子大学に進みました。どんなことを勉強していたのですか。
向 海外の現代文化への興味です。アルバイトでお金を貯めては海外に行っていました。卒論はアメリカの野球について書きました。どうしてアメリカで野球が誕生し、広まっていったのか。アメリカンフットボールの広がりとはどういう違いがあるのか。野球にはアメリカの農業社会が反映されているんですね。大学ではそんな文化の背景を探して、文字にするということを学びました。
久保
卒業のときにファッション業界への就職を考えたのですか。

まだファッションは出てこないんです。私は大学時代に事務のアルバイトをしたことがあって、いけないことなんですけど、どうしても仕事中に居眠りをしてしまって。ずっと椅子に座ってする仕事は向いていないと実感しました。外に出て人に会う仕事がしたいと思って、それだけの理由で総合職を目指したんです。ただ、当時はまだ女性の総合職が少なかったんですね。そこで業種に関係なく、総合職のある会社を受けました。その中に1社だけファッション業界の会社があって、それがデニムアパレルのエドウインだったんです。面接に行って、社員さんたちにお会いして、この会社に入りたいと思った。みなさんに惚れてしまったんですよ。生き生きした人たちがたくさんいたんです。
久保 ファッション業界には年齢に関係なく生き生きしている人が多いですよね。

本当にそう。デニム市場にはリーバイスという大きな存在がある中で、「日本のデニムを世界に出すぞ!世界の空をエドウインのブルーで染めるぞ!」と本気で言っていたんですよ。野心を持っているところに惚れてしまった。ファッションが好きで入社したというより、そういった理由なんですね。エドウインでは営業職として5年間働きました。

久保 
営業ではいろいろ経験されたでしょう。
 
卸先のお店に入るときには元気良く、「まいど!」って言うんです(笑)。それが最初はなかなか言えなくて。先輩たちは肩にいっぱいデニムを積んで「まいど!」って入っていく。第一印象の明るさとか、商品が売れていなくてもポジティブに会話を広げていくとか、そういったことを先輩たちからすごく学びました。こんなこともありました。先輩が2本のデニムを並べて「何が違うか分かるか」と問うてきたんですね。同じにしか見えなかったので「分からないです」と答えると、「幅が1cm違うんだ」と。幅が1cm広いほうは売れていて、狭いほうは売れていない。単にパターンの問題ではなく、穿いたときのフィット感や、そのときの気持ちを察することができないと、売り上げを作れる営業マンにはなれないということを教わりました。
久保 
微妙な違いなんだけど、デニム屋さんは特にこだわりが強いですからね。

デニムは靴などと同じでサイズアイテムですから。その「1cmの違い」的なものの大切さはその後、日本繊維新聞社やWWDジャパンに転職してファッション業界の様々な人たちと話すようになって、どの分野にもあることを実感しました。全部に共通する1cmの違いを分かる人間になれということを、社会に出て最初に学びました。

記者への転身、編集長、サステナビリティ・ディレクターへ

久保 
エドウインで営業職を経験後、日本繊維新聞社に転職しました。
 
売ることではない形でファッションに関わってみたいと思ったんです。「好きだ」と思った人たちを私の胸の中だけに留めるのではなく、誰かに伝えたいという思いが強くありました。ファッション関係のメディアを調べて一覧表にして、片っ端から電話したんです。中途採用はしていない会社が多かった中で、日本繊維新聞社がちょうど面接をやっているところだったんですね。翌日に面接に行ったら、受かったんです。英語を話せるようになりたくて留学も考えていたのですが、それは止めて、日本繊維新聞社に入社しました。
久保 
で、取材をして、記事を書くという毎日が始まった。
向 当時の新聞は縦書きで、タイトルは1行、12ワードまで。12文字に凝縮するという伝え方の訓練はしましたね。紙媒体なので紙面は限られ、刷り直しはできないので絶対に間違えてはいけない。当たり前のことですが、今のウェブでは経験しづらいことを学びました。
石田 
その後、『WWDJAPAN』に移籍しました。
 
当時の名物編集長、三浦彰さんにばったり会ってお誘いを受けたんです。その頃は、実は日本繊維新聞社はもう辞めていて、フリーランスのカメラマンになろうと思っていたんですよ。
久保・石田 
ええっ!? 何でまた。
向 
何かを表現していくときに、文章がいいのか、写真がいいのか、自分の中でクリアになっていなかったんですね。『MC SISTER(エムシーシスター)』とかを見て育ったので、写真表現って素敵だなとずっと思っていて。で、日本繊維新聞社を辞めて、カメラマンのアシスタントをしていたんです。
久保・石田 
ええっ!?
 
ところが、機材を壊してしまって……。師匠からは「君はカメラマンに向いていない」と。あんなにはっきり言われたのは人生で初めてでした。私自身も向いていないと感じていたので、三浦さんに声を掛けられてそのまま『WWDJAPAN』へ。30歳を超えたぐらいの頃ですね。転機だったなと思います。

石田紗英子(いしだ・さえこ) フリーアナウンサー
JALグループ客室乗務員を経て、フリーアナウンサーに転身。様々なメディアにレギュラー出演し、1000人のインタビューを担当。USEN「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」では、ファッション業界のリーダーの皆様のお話を伺う。歴史好きアナウンサーとして月刊誌「歴史街道」に執筆、最近ではNHK大河ドラマ「光る君へ」特別番組のMCを担当。マナー・プロトコール検定準1級を取得し、全国の企業・学校での講師活動を行う。2017年〜吉野町観光大使。趣味は歴史探索。世界遺産検定2級、日本遺産ソムリエ。

石田 
入社された頃の『WWDJAPAN』は、ウェブメディアもやっていたのですか。
向 
ウェブはまだやっていなくて、週刊の紙媒体でした。アメリカの媒体なので紙面の半分が翻訳記事で、海外の情報にたくさん触れられるようになったのは、自分にとって大きな変化でした。グループ会社は「ファッション通信」というテレビ番組も持っています。ファッションショーの場での経験が増えたのも大きかったですね。
石田 
そこから始まって、15年から21年まで『WWDJAPAN』の編集長を務めました。
 
その前に『FASHION NEWS』というコレクションマガジンの編集長、次に『WWDJAPAN MOBILE』というウェブメディアの前身に当たるデジタルコンテンツの編集長をして、その後、『WWDJAPAN』のファッションディレクターを経て編集長になりました。21年からは編集統括サステナビリティ・ディレクターを務めています。
石田 
編集長って選ばれし人ですよね。
 
私の場合は、『WWDJAPAN』以外の編集長は立候補なんですよ。『FASHION NEWS』の頃は私には役職が無く、ファッションショーの会場に入れてもらえなかったんですね。肩書きが無いと駄目なんだとつくづく実感し、次の日に「私を編集長にしてください、でないと良い取材ができません」と会社に掛け合い、役職そのものを作ってもらいました。現職のサステナビリティ・ディレクターもこの世に存在しない肩書きでした。業界にはサステイナビリティーに関する情報が必要なので、そういう肩書きを作りたいと会社にお願いして作ってもらったんです。
石田 
ご自身で道を拓かれたのですね。
向 
何しろ「探検家」ですから(笑)。

「サステイナビリティー」への取り組みは普遍化への過渡期

久保 
サステナビリティ・ディレクターの仕事は今、とても大切な役割を担う仕事だと思います。サステイナブルとかSDGsは業界全体のアティチュードとしては大切だけれど、エクスキューズで使われることも多く、グリーンウォッシュだったりすることもあります。トレンドの言葉として使われている側面もあるということについてどう思いますか。
向 
グリーンウォッシュは別としても、私はトレンドでいいと思っているんです。トレンドは人の気持ち、欲望の化身だと思うんですね。まだ矛盾がいっぱいあって迷いながらも、何かやってみたいとか、やらなければならないとか、そうした気持ちを持って動き出している今の現象はトレンドなんですよ。世の中の人たちの感覚をファッション業界の人たちが敏感に察知して、迷いながらも「サステイナブルであろう」としている。それがトレンドになっているのは良いことだと、私は思っています。
久保 
トレンドになった後に萎んでいくのではなく、普遍化していく。その段階にあるトレンドとして、今のサステイナビリティーへの取り組みを捉えているんですね。
向 
例えばトレンチコートは、ミリタリーに由来するけれど、現在はファッションとして普遍的なもの、オーセンティックになっています。サステイナビリティーへの取り組みは、今はまだ矛盾だらけで、普遍化への過渡期なんですね。オープンソースで情報を共有するなどして、ちょっとずつみんなで理解し合いながら、変わっていく。それによって近い将来、オーセンティックになっていくと信じています。
久保 
そういう芽というか、様々な取り組みや変化を情報として社会に投げていくことが、サステナビリティ・ディレクターの仕事。
向 
そうですね。どうしてもヨーロッパからの情報が多くはなるのですが。環境への対応は15年ぐらいから盛り上がり始め、18年頃にはファッション業界でも本気で取り組むべき課題になりました。18年の「プルミエール・ヴィジョン」を取材した記者が帰国して、「向さん、大変です!」と駆け寄ってきたのを今でも覚えています。「大手のブランドがサステイナブルな素材じゃないと買わないと言っています」と。そうした情報を伝えていくことはもちろんですが、同時に、ヨーロッパの言っていることが全て正しいのかという議論を起こしていくことも大事です。こうあるべきということを伝えるだけではいけない。
久保 
フッ素系やフォーエバーケミカルなどはEUがいち早く規制しましたね。
 
どんなに良い生地を作っても、EUの基準で輸出ができなくなる。そういうことがすでに始まっています。それに対しては、やはり正しい情報を基に真正なものを作っていることを伝える手段を持たなければなりません。日本のファッション企業は多くが海外で作って日本で売るという図式です。海外の市場に製品が曝される機会が少ないので、危機を実感する機会も少なくなります。海外の規制が厳しくなる中にあっては、日本に服を買いに来てもらえる仕組み作りも大切ではないでしょうか。日本には日本のサステイナビリティーがあるという取り組みを日本で堂々と展開することも一つの方法だと思います。

「服の一生」を考える時代のクリエイティビティー

久保 
ここ数年、輸入浸透率は98%前後が続いています。日本製は2%しかないという状況下でサプライチェーンが途切れたら、大変なことになります。ある程度は国内で作って輸出できる仕組みを整えることも課題かもしれません。
向 
私は今、日本のテキスタイル産地に行っているんです。ずっと海外のコレクションに行っていた人間が今さらすみませんという気持ちでいろんな産地を回っています。メディアは産地の現状について「衰退」とか「ジリ貧」といった言葉を使いがちなんですけど、本当に素晴らしい技術があって、素晴らしい職人さんがいて、希望があるんですよ。確かにかつてと比べたら規模は縮小し、厳しい状況はあるけれど、実際に産地に行くとキラキラしている人と物に触れることができます。私はどちらかというと輝きの部分にフォーカスして、これからを考えていきたい。
久保 
物作りと流通の問題がある一方、大量生産・大量廃棄の問題があります。フランスでは22年1月から「衣服廃棄禁止令」が施行され、アパレル製品の焼却や埋め立てができなくなりました。
 
基本的にもう廃棄はできない。これまで洋服は、着る人を軸に考えられていました。洋服を買って、着て、クローゼットに入れる。それを繰り返して洋服はクローゼットの中で寿命を迎えますが、その先のことは誰もよく分からないんですね。今は「服の一生」を考える時代になっています。洋服Aが売り場から移動して、着られて、クローゼットに入った。その後のAという洋服の人生はどうなるのか。古着屋以外に選択肢は少なく、捨てるにしても分別さえ難しい。ペットボトルも段ボールも家電も日本では約90%がリサイクルされています。ところが、いまだ洋服はごみ袋に入れて捨てているのが現状です。そこを変えていきたいと思っています。

石田 
最後に、ファッション業界を目指している方々へメッセージをお願いします。
 
クローゼットの先もファッション業界の仕事になってくると、クリエイティビティーを発揮する範囲が広がります。これまでは洋服をデザインして、製品化して店頭で売るところまでがファッション業界の仕事でしたが、売れ残ってしまった大量の製品をどう生かしていくのか。リペアとかリセールとかいろんな方法がありますし、もっと斬新な方法もあるかもしれません。クリエイターを目指している人は、ぜひサーキュラーエコノミーまでを視野に入れてクリエイティビティーを発揮していただきたい。もう一つは、本当にごめんなさいと思っていることです。講演や授業などで中学生や高校生と話すことが多いのですが、最近は罪悪感を持ってファッションを語る子が多いんですね。私が着ているこの服が誰かを傷つけているかもしれないと。そうなってしまっているのは、私たちの責任です。根底からサプライチェーンを変えていく努力をするから、ファッションを楽しみ続けてほしいと思っています。
久保・石田 
本日はありがとうございました。

写真/プラグイン|エディトリアル提供
取材・文/久保雅裕

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