情熱と出会いで始まった物語は
形を変えて、今もどこかで

長門氏は、シュガー・ベイブからティンパン・アレーのマネージャーを経て、1970年代後半より、南青山のレコード店“パイドパイパーハウス”の店長、オーナーを務めながら、海外の音源制作、ライヴ制作を手掛けるようになる。
「たとえばラヴィン・スプーンフルとか、ヤングブラッズといったディスクチャートでかけていた音楽、そういう人たちのレコード、新譜作ったり再発したりとか、そっちのほうにいっちゃうんです」(長門)。
「僕はどんどん日本の音楽に深入りするようになった。あの頃シュガー・ベイブを聴いて、“この音好きだな”と思えたようなバンドは今でもいる。そういう人たちに出会えるといいなと思ってここまで来てしまったんですね。シュガー・ベイブや(『SONGS』のプロデューサーである大滝詠一が在籍した)はっぴいえんどもそうですけど、当時をリアルタイムで知らない若い研究者が多いでしょ。そういうふうに音楽が改めて解き明かされたり、継承されたりしているっていう意味では、いい時代になったんだなと思います」(田家)。

長門、田家両氏はシュガー・ベイブ解散の後、それぞれ次のステップへと進み、そして1980年代半ばに思わぬ“再会”をする。場所はFM TOKYO。田家氏はライターとして著作を発表しながら、放送作家としても活動を続けていた時期だった。
「長門さんがピチカート・ファイヴのマネージャーとして、プロモーションでFM TOKYOに来られたんです。まだラジオの仕事を僕はやっていて、たまたまそこにいたんです。そこで長門さんを紹介された時に“田家さんにレコードを売ったことがあるんですよ”って彼に言われたんですよ。“パイドパイパーハウスですか?”と聞いたら、“ディスクチャートです”と。“でもあそこで買ったの一枚だけですよ……何でそんなことご存じなんですか?”と尋ねると“レジで僕が売りました”って」(田家)。

その一枚とは、言うまでもなく『Add Some Music To Your Day』である。
「僕はディスクチャートの時、お互いに自己紹介はしていなかったので、田家さんのお名前は存じあげてなかったんです。その後、雑誌か何かで田家さんを見て“あ、この人だ”と」(長門)。

田家氏は『Add Some~』に関して、こんなエピソードも聞かせてくれた。
「『Add Some~』のことを一回だけ新聞に書いたことがあるんです。達郎さんの“PERFORMANCE 2002 RCA/AIR YEARS SPECIAL”を中野サンプラザに観にいったんですけど、その1週間くらい前に(ビーチボーイズの)ブライアン・ウィルソンが東京国際フォーラムでライヴをやっていて、両方の話を毎日新聞のライヴ評で書いた。それを達郎さんが読んでくれたみたいで、“田家さんは前から知っているんだけど、フォークの人だと思っていたから、まさかあのレコードを買っているとは思わなかった”と、たまたま聞いたラジオ番組で話されてたんですよ。ちなみに、その中野サンプラザのライヴでは“僕が同じ時代を生きて、同志だと思っているアーティストの歌です”というMCの後に、愛奴の“二人の夏”をやったんです。ライヴ後、楽屋でご挨拶したとき“今日のことは、浜省に言っておいてね”って達郎さんに言われて。達郎さんの中で僕はやっぱり吉田拓郎、浜田省吾なんですよね。だから『Add Some~』をまさか買っていると思わなかったわけで(笑)」(田家)。

浜田省吾が在籍していたロックバンド、愛奴は、イベントでシュガー・ベイブと共演することが多かった。中野サンプラザでのMCの“同志”という言葉を「同じ志をもって、デビューして、不遇なまま終わらざるを得なかったことも共有している同志」と、田家氏は言う。
「そう、愛奴と、センチメンタル・シティ・ロマンスは同志って感じですね。シュガー・ベイブは当時、本当に音楽シーンに居場所みたいなものがなかったんですが、でもこのふたつのバンドには何か近いものを感じていた」とは長門氏。

まだ日本のロック/ポップスのシーンが現在のように成熟しておらず、誰もが手さぐりで、それぞれが自分の表現、居場所を作り出さなければならなかった、そんな時代にシュガー・ベイブは生まれた。だが、数は決して多くないが、仲間は確かにいた。
「ディスクチャートは、自分が経営者じゃないから、好きなことに対して突っ走っていたりしたこともありますけど、好きな音楽をいろんな人に聴いてもらって、同じ趣味の人に集まってほしいと思っていた。そこに集まってきたのが、彼らだったんですよね。そして、オーナーの後藤さんもすごく理解してくれていた」(長門)。
「いつの時代にも、才能があっても、それが開花する環境にいない人はいると思うんです。でも、シュガー・ベイブにはそういう人たちが集まれる場所として、四谷ディスクチャートがあり、その中で、自分たちの信じるものをやり通そうとした本人たちの情熱と愛情と意地があった。そして、それを見守ってくれる人、人間関係があった」(田家)。

いくつかの偶然が重なり生まれた、シュガー・ベイブとその時代の物語。今では伝説として語りつがれている、彼らが残した作品やエピソード。それらを生んだ偶然は、40年後の現在から振り返えれば、必然だったように思える。でも始まりのきっかけは、情熱と、それが引き寄せた人との出会い。今も変わらない単純な願いだ。だからこそ思う。今でも新しい物語は、今日も街のどこかで、きっと始まっているのだ、と。
     (おわり)



NEWS!

山下達郎特設サイトで3週に渡っての週替わり特別企画

シュガー・ベイブ『SONGS -40th Anniversary Ultimate Edition -』が8月5日に発売されるのを記念して、ワーナーミュージック・ジャパンの山下達郎特設サイトでは、7月22日(水)から3週に渡って週替わりの特別企画を実施。

第1回目は「竹内まりや×佐橋佳幸 スペシャル・アンケート企画」
1975年に渋谷のYAMAHAで行われた、シュガー・ベイブのインストア・イベントを体験した、二人のミュージシャン、竹内まりやと、佐橋佳幸にアンケートを取り「当日記憶に残っていること」、「シュガー・ベイブが与えた影響」、「シュガー・ベイブで好きな曲」を直撃質問。
■山下達郎 ワーナーミュージック・ジャパン特設サイト

http://wmg.jp/tatsuro//

プロフィール

長門芳郎(ながと・よしろう)
シュガー・ベイブ、ティン・パン・アレー(細野晴臣/鈴木茂/林立夫)のマネージャーとして活動。その後、1970年代後半~1980年代に南青山のレコード店、パイド・パイパー・ハウスの店長~オーナーを務める。その傍ら、ピチカート・ファイヴのマネージメントや海外アーティストのコンサートプロデュースなども手掛けた。現在、ラジオ『ようこそ夢街名曲堂へ!』(K-MIX)に出演のほか、音楽雑誌『レコードコレクターズ』にて『長門芳郎のマジカルコネクション』を連載中。8月1日から9月13日には、横浜赤レンガ倉庫1号館2階スペースにて開催される『70’sバイブレーションYOKOHAMA』にて、パイド・パイパー・ハウスが復活する(MUSEUM OF MODERN MUSIC)

田家秀樹(たけ・ひでき)
1969年にタウン誌のはしりとなった『新宿プレイマップ』の創刊編集者としてそのキャリアをスタート。雑誌、ラジオなど通じて、日本のロック/ポップスをその創世記から見続けている。『夢の絆/GLAY2001ー2002ドキュメント』『オン・ザ・ロード・アゲイン/ 浜田省吾ツアーの241日』『豊かなる日々/吉田拓郎・奇跡の復活』など、著書多数。現在 『J-POP TALKIN’』(NACK5)、『MIND OF MUSIC・今だから音楽』(BAYFM)、「J-POP LEGEND FORUM」(FM COCOLO) のパーソナリティや、『毎日新聞』『B-PASS』『ワッツイン』などでレギュラー執筆中。

左:田家秀樹氏、右:長門芳郎氏

左:田家秀樹氏、右:長門芳郎氏

山下達郎がアマチュア時代に作成した自主制作盤『Add Some Music To Your Day』(写真は現在ファンクラブサイトで購入可能なCD)

山下達郎がアマチュア時代に作成した自主制作盤『Add Some Music To Your Day』(写真は現在ファンクラブサイトで購入可能なCD)

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