コアなファンの間では
話題になっていた
風都市の解散の後、長門氏とシュガー・ベイブは、拠点を音楽事務所テイクワンに移す。ジャズピアニスト・山下洋輔のマネージャーであった柏原卓氏と、当時、風都市のスタッフで、現在、編集者、音楽ライターとして活躍する前田祥丈氏がそこに合流することとなった(ちなみにテイクワンが入居していたビルには、1980年代には作家・イラストレーター・タレントのリリー・フランキーが住んでいて、小説『東京タワー』の舞台となったことで有名だ。長門氏によると「僕らは70年代ですけど、リリー・フランキーは80年代に、そのマンションに住んでいたんですね」とのこと)。このテイクワンを拠点として、シュガー・ベイブはさまざまなステージに立つ。
1973年9月21日、文京区・文京公会堂(当時)で行われたはっぴいえんどの解散コンサートへの出演を皮切りに、当時のシュガー・ベイブのライヴを田家氏はいくつか目撃している。
「文京公会堂の後は日本青年館のA・ROCK祭か、日本都市センター・ホール(当時)の三ツ矢フォークメイツ・フェス、野音も見てます」。
放送作家として多忙な日々を過ごしていた田家氏。その担当番組には『三ツ矢フォークメイツ』という、当時のフォークのアーティストをメインに紹介する番組もあった。
「『三ツ矢フォークメイツ』では、HOBO’Sコンサートのライヴ音源を使って番組も作りました。そのあとは新宿厚生年金会館小ホールの“シュガー・ベイブ・セカンド・コンサート”(1975年1月24日)。ユーミンがゲストに出たでしょ? パラシュートスカート穿いて……このコンサートは金曜日ですね。当時レギュラーが12本で、ワイド番組を担当していると、スタジオを離れられないんですよね。でも金曜日は外に出られたんだな、きっと。それだけが理由じゃないんですけど、ラジオの仕事をやめちゃうのは、コンサートにいけないというのもあったんですよね」(田家)。
「とにかく、レコードが出る前ですから、渋谷ジァン・ジァンの昼の部で、お客さんが4~5人しかいないこともありましたよね。バンドのほうが人数が多いという……(笑)。しょうがないですよね、誰も知らないですからね。(シュガー・ベイブは)当時、日本のロック界、音楽界にまったく居場所はなくて。ああいうバンドは他にいなかったですからね。雑誌も評価してくれるところはあまり多くなかったですし、分からなかったと思うんですよね。ああいうバンド、『SONGS』みたいなアルバムが突然出てきて」(長門)。
ラジオでは好きなディレクターがかなりいて、よくかけていたと田家氏は言う。
「大貫妙子さんに、後にソロになってからですけど、“シュガー・ベイブは好きで、何度か見てたんですよ”って言ったら、“何でその時原稿書いてくれなかったの?”って言われて。“僕はその時放送作家をやっていて、ラジオではたくさんかけましたよ”って言い訳をね(笑)したんですけど」(田家)。
「LF(ニッポン放送)もよくかけてくれたと思いますね」(長門)
「だから(『SONGS』のデモテープのために)スタジオを貸してるんですよね。荻窪の解散コンサート、2日目に行ったんですけど、オールナイトニッポンの2部が録ってましたよね」(田家氏)
「ニッポン放送の亀渕さんや藤井さんや、バックアップしてくれる方がけっこういらっしゃって」(長門)。
そしてシュガー・ベイブは1976年に解散する。同年3月31日、4月1日に荻窪ロフトで行われた解散コンサートは、超がつくほどの満員だった。
「カウンターの中にも人がいっぱいいて。仙台から来てた人もいた。ステージ上から“仙台から来てる人もいるのか”って声をかけられていて。その時に“こんなに人が入ってて仙台からも来てるのに、何で解散するんだろう?”と思ったのを覚えていますね。今思えばロフトなんで、たくさんともいえませんけど(笑)」(田家)
「ワンマンは割と入ったんですよ。その人たちがレコードは買ってくれているんだろうけど、当時それ以上の広がりはなかったのかなって」(長門)
発売元であるエレックレコードの倒産など、状況的な不運も重なり、『SONGS』は商業的には成功しなかった。しかし残されたこの音源はその後、長い時間を経てなお聴き継がれる名盤となる。次回はこの『SONGS』についてのエピソードをお送りする。
(つづく)
プロフィール
長門芳郎(ながと・よしろう)
シュガー・ベイブ、ティン・パン・アレー(細野晴臣/鈴木茂/林立夫)のマネージャーとして活動。その後、1970年代後半~1980年代に南青山のレコード店、パイド・パイパー・ハウスの店長~オーナーを務める。その傍ら、ピチカート・ファイヴのマネージメントや海外アーティストのコンサートプロデュースなども手掛けた。現在、ラジオ『ようこそ夢街名曲堂へ!』(K-MIX)に出演のほか、音楽雑誌『レコードコレクターズ』にて『長門芳郎のマジカルコネクション』を連載中。8月1日から9月13日には、横浜赤レンガ倉庫1号館2階スペースにて開催される『70’sバイブレーションYOKOHAMA』にて、パイド・パイパー・ハウスが復活する(MUSEUM OF MODERN MUSIC)。
田家秀樹(たけ・ひでき)
1969年にタウン誌のはしりとなった『新宿プレイマップ』の創刊編集者としてそのキャリアをスタート。雑誌、ラジオなど通じて、日本のロック/ポップスをその創世記から見続けている。『夢の絆/GLAY2001ー2002ドキュメント』『オン・ザ・ロード・アゲイン/ 浜田省吾ツアーの241日』『豊かなる日々/吉田拓郎・奇跡の復活』など、著書多数。現在
『J-POP TALKIN’』(NACK5)、『MIND OF MUSIC・今だから音楽』(BAYFM)、「J-POP LEGEND FORUM」(FM COCOLO) のパーソナリティや、『毎日新聞』『B-PASS』『ワッツイン』などでレギュラー執筆中。