シュガー・ベイブ
そのはじまり
シュガー・ベイブ。1973年に山下達郎、大貫妙子、村松邦男、鰐川己久雄、野口明彦の5人で結成。その後、野口から上原裕、鰐川から寺尾次郎に交代、伊藤銀次が加わった時期もある。そして1976年春に解散。
唯一残されたアルバム『SONGS』は、1975年の発売から40年の時を超えて、なお聴き継がれる日本のロック/ポップスのクラシックであり、名盤だ。8月5日には、山下達郎の監修による、『SONGS -40th Anniversary Ultimate Edition-』と題された40周年記念盤がリリースとなる。
7月の特集では、その成り立ちを間近で目撃していたシュガー・ベイブのマネージャーであった長門芳郎氏と、当時、放送作家としてラジオというメディアで活躍し、シュガー・ベイブが生まれた場所であるロック喫茶“四谷ディスクチャート”を介して、長門氏と縁のあった音楽ライターの田家秀樹氏の対談からお送りする。
シュガー・ベイブが結成された1973年当時、文化放送で12本のレギュラーを抱え、会社の近くにあった、出来たばかりのロック喫茶“ディスクチャート”で原稿を書いていたという田家氏。
「長時間いましたよね……コーヒー一杯で(笑)。居心地が良かったから」という彼に、お店でかかっていた一枚のレコードから流れるヴォーカルが耳に入る。「いつものように原稿を書いていたんです。そしたらビーチボーイズみたいな音楽が流れてきて。でも“ビーチボーイズみたいだけど、何か違うな。だけど良いな”と思って。レジに聞きにいったんですよ。“これ誰ですか?”って」。
そのレコードとは、山下達郎がアマチュア時代に自主制作した『Add Some Music To Your Day』。そして、その時応対をしたのが、当時このディスクチャートで働いていた長門氏だった。
「『Add Some~』は、実際にお金を出して買った人は数人だと思います。100枚作って、メンバーがそれぞれ友だちに手売りとかして」(長門)。
「すごく良いなと思って。で、長門さんが学生の自主制作盤だとおっしゃったので、何かの助けになればという気持ちもあって一枚買ったんです」(田家)。
その後、『Add Some Music To Your Day』は、高円寺のロック喫茶“ムーヴィン”で、伊藤銀次が偶然耳にすることとなり、シュガー・ベイブと大滝詠一を結びつけることとなる。ちなみに、このムーヴィンでは『Add Some~』を販売していたわけではなく、店主が人づてで入手したものを、たまたまかけていたのだそうだ。『Add Some Music To Your Day』を売っていたお店は、四谷ディスクチャートだけだった。
しかし、そもそも、なぜ山下達郎はディスクチャートにやってきたのか。
「“四谷に、時流に合わないレコードばかりかける変わったロック喫茶ができた”という口コミが、山下くんの主制作盤のキーボードだった武川くんから伝わり、自主制作盤を持っていったら売ってくれるんじゃないかと……。それで山下くんが(お店に)初めて来たんですね」(長門)。
その時の応対をしたのが長門氏で、彼は若き日の山下達郎と意気投合する。「自主制作盤の『Add Some~』で、彼の歌声を聴いてぶっ飛びましたから。こんな歌を歌うやつがいるんだと。山下くんの家に行ったとき、オリジナルのカセットも聴かせてもらったんですけど、これがまた、良いんですよね」。
そして、こちらも長門氏の知人であったアレンジャーの矢野誠、彼がディスクチャートへ連れてきた大貫妙子のデモテープ作りを、山下は見学に来るようになる。ディスクチャートの閉店後、店内で夜中行われていたこのセッションの場で大貫妙子らと知り合った山下達郎は、彼女らとシュガー・ベイブを結成する。
その後、長門氏とシュガー・ベイブは、はっぴいえんどや、吉田美奈子、南佳孝、あがた森魚らを擁する音楽事務所「風都市」へ所属するも、ほどなく風都市は解散し、彼らは新たな道を模索することになる。
(つづく)
プロフィール
長門芳郎(ながと・よしろう)
シュガー・ベイブ、ティン・パン・アレー(細野晴臣/鈴木茂/林立夫)のマネージャーとして活動。その後、1970年代後半~1980年代に南青山のレコード店、パイド・パイパー・ハウスの店長~オーナーを務める。その傍ら、ピチカート・ファイヴのマネージメントや海外アーティストのコンサートプロデュースなども手掛けた。現在、ラジオ『ようこそ夢街名曲堂へ!』(K-MIX)に出演のほか、音楽雑誌『レコードコレクターズ』にて『長門芳郎のマジカルコネクション』を連載中。8月1日から9月13日には、横浜赤レンガ倉庫1号館2階スペースにて開催される『70’sバイブレーションYOKOHAMA』にて、パイド・パイパー・ハウスが復活する(MUSEUM OF MODERN MUSIC)。
田家秀樹(たけ・ひでき)
1969年にタウン誌のはしりとなった『新宿プレイマップ』の創刊編集者としてそのキャリアをスタート。雑誌、ラジオなど通じて、日本のロック/ポップスをその創世記から見続けている。『夢の絆/GLAY2001ー2002ドキュメント』『オン・ザ・ロード・アゲイン/ 浜田省吾ツアーの241日』『豊かなる日々/吉田拓郎・奇跡の復活』など、著書多数。現在
『J-POP TALKIN’』(NACK5)、『MIND OF MUSIC・今だから音楽』(BAYFM)、「J-POP LEGEND FORUM」(FM COCOLO) のパーソナリティや、『毎日新聞』『B-PASS』『ワッツイン』などでレギュラー執筆中。