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「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」by SMART USEN
[section heading="ゲストスピーカー"] [section heading="モデレーター"]
[section heading="気づいたらファッションに興味を持っていた少年期"]
──東京モード学園卒業、ヨウジヤマモトでのパタンナー、そして自身のブランド立ち上げという経歴を見ると常にファッションの最前線にいたという印象ですが、ファッションへの興味が生まれたのはいつ頃だったのでしょう?
「ファッションを意識したのは小学生の頃ですね。ハイソックスの中にパンツの裾を入れてみたり、体操服の着こなしをアレンジしていましたね。高学年になると、バレーボールをやっていたんですけど、クラブが終わってから親に頼んで洋服屋さんに連れていってもらっていました。アメカジとか、そういった雰囲気のお店でブランドとかそういうのではなかったですけど。中学生になったら、制服が学ランで、既定の丈よりも少し短めのものを着たりしていました。当時はデザイナーとか、ましてやパタンナーなんて職種もよく知らなかったんですが、洋服のディテールには興味がありましたね」
──ファッションへの興味は小さい頃に芽生えたんですね。では実際「モード」に興味を持ち始めたのはいつ頃でしょうか?
「デザイナーブランドへの意識が生まれたのは高校性の時です。当時アントワープ・シックスやマルジェラがすごく人気で、好きでした。アルバイト禁止の高校だったので、家族や親戚の仕事を手伝って、セレクトショップに通っていましたね。音楽好きのオーナーで、とても気が合ったので閉店までお店にいたり。その頃にはもう東京に行きたいと思っていました」
[section heading="本格的なファッションの道へ"]
──それで東京モード学園に?
「いえ、実は東京に来たのは大学に入学したからです。家族の勧めもあって、一度大学に入学しました。ただ、在学中には自分の中でやりたいことがはっきりしだしたので、親に頼み込んで、大学を辞めて東京モード学園に行きました」
──東京モード学園に入ってようやく好きなことができるようになったんですね。そこでパターンを学んですぐヨウジヤマモトに入社されたのでしょうか?
「東京モード学園は楽しかったですね。とても個性的な人たちの集まりで。井野将之くんや天津 憂くんは同期です。卒業してからすぐヨウジヤマモトに入ったわけではないです。古着屋で働いていて、リメイクを任されていました。そこでは自分の好きなように作らせてもらえたので、とても面白かった。すごく貴重な体験でしたね。2年くらい働いたのですが、ご縁があってヨウジヤマモトに入社することになりました」
──ヨウジヤマモトではどんな経験をされたのでしょうか?
「やはり日本を代表するブランドということもあって、ものづくりへの姿勢という点でもとても多くのことを学ばせていただきました。入社したての頃は、縫製室や資料室のすごさに圧倒されて感動しましたね。入社してまずはパタンナーのアシスタントから始めるのですが、先輩から頼まれてコレクション前の仮縫いでモデルの代役を務めたりして、最初からコレクションの緊張感を肌で感じることができました。パタンナーだけでも100人以上いるという競争の激しい環境でしたが、ヨウジという世界的なブランドで働けたというのは、自分にとって大きな財産です」
──ヨウジヤマモトにいる頃から自分のブランドを始めることは考えていたんでしょうか?
「いえ、当時はまったく考えていなかったです。ヨウジというブランドが大好きで働いていたし、目の前のことに必死だったので」
──ではいつ頃自分のブランドを作りたいと思いましたか?何かきっかけがあったのでしょうか?
「ヨウジで7年働く中、本当に色々なことを学ばせてもらいました。パターンも、シャツから始まって、パンツ、ブルゾン、ジャケット、コートと一通りのアイテムを担当させてもらえました。その頃、世の中はちょうどエディ・スリマンの"ディオール"全盛で、自分もテーラードを勉強していたこともあって、時代の流れを読もうと少し外の世界に目が向いていきました。もしかしたら外を見る余裕ができていたのかもしれません。そして、もしかしたら自分でもできるかも!と思い立って、会社を退職しました」
[section heading="ゼロからのブランドの立ち上げ。パリ ファッション・ウィークへの道のり"]
──以前から計画していたわけではなかったのですね。それでは立ち上げは大変だったのでは?
「そうですね。ブランドの名前さえまだなく、とにかく始めたいという気持ちだけでした。ただ、妻もヨウジヤマモトのパタンナーだったのですが、ちょうど同時期に会社を退職して、お互いの気持ちが外へ向くタイミングが同じだったので、一緒に始めようということになって。2008年10月に辞めたのですが、世の中はリーマンショック真っ只中。先が全く見通せない状況でしたが、とにかく2009年秋冬コレクションを作り始めました。最初のコレクションは展示会出展を目指して30型。職人気質の妻は制作に専念してもらって、自分で福岡や鹿児島のセレクトショップに営業に行きました。何しろ初めてのことだらけだったので、神戸・大阪での営業を終えて次は名古屋へ、という時には体調を崩してしまいました。今思うと相当なストレスがあったのかもしれません。幸いにもそのファーストシーズンでオーダーがついたのですが、実際に売り上げとして上がってくるまでに次のシーズンも作らなくてはいけない。子供も二人いて、子育てとコレクション制作を妻と二人でシフト制にしたり工夫しながら、何とかやっていました。でも、せっかく自分たちのブランドを作ったのだから、自分たちがやりたいことをやらなくては意味がない、という思いでやってました」
──その積み重ねで、東京ファッション・ウィークやミラノファッション・ウィークにつながっていくのですね。
「はい、本当に少しずつですね。東京ファッション・ウィークに参加するようになって、多くの人にブランドを知ってもらってオーダーが増える中、忙しさの中で本当は何がしたいんだろうと見失いそうになることもあったのですが、やりたいことをやる!という原点に立ち返るとふっきれました。妥協しないものづくりへの姿勢とか、命をかけてパターンをひくこととか、ヨウジ時代に学ばせていただいたので、そういった財産を持って自分たちのブランドを展開できている。本当に言葉にならないくらい感謝しています。そしてアルマーニの支援でミラノでのショーが実現しました。それから何度かミラノでショーをしたのですが、やっぱり自分たちの中で"パリでショーをする"ということが大きな目標だったんですよね。ヨウジ時代にそこは経験させてもらっていたので目指すところがとてもクリアでした。憧れの舞台でもあり、明確な目標として持っていた。そして、海外でショーをするにはいずれにせよ強いコレクションとチームを作っていかないといけないので、どうせならパリでやろう!となりました」
──パリのショーでは初めて奥様も最後に出てこられましたね?
「はい。妻はずっと"自分は裏方でいい"と言って表には出てこなかったのですが、パリのショーでスタイリングをしてくださった水谷美香さんの勧めもあって。ずっと二人でやってきたので、私としても出てくれてよかったと思います」
──いろいろ経験したからこそ、自分たちの本当にやりたいことがはっきり見えたのですね。パリが大きな目標とのことですが、それを達成した今、今後の目標は?
「今やっていることを継続していくことですね。パリでショーを続けていくこととか。ブランドを始めた時もそうだったのですが、あまり先のことを決めて動き出すタイプではないので。ブランドのロゴも変えましたし、時代に合わせてスタイルも少しずつ変化しながら、臨機応変にやっていきます」
デザイナーなら誰もが憧れるパリでのランウェイを実現させたウジョー。順風満帆に見えるブランドにも先が見えない時期があった。そんな時も夫婦二人三脚で支え合い、自分たちができること、やりたいことを真摯に続けていたからこそ、あの華やかな舞台にたどり着いたのだろう。二人ともデザイナーでありパタンナーである強みをいかし、日本を代表するブランドとしてこれからもパリで活躍してくれそうだ。
(おわり)
取材・文/久保雅裕(encoremodeコントリビューティングエディター)