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「ジュルナルクボッチのファッショントークサロン」by SMART USEN
感染拡大を危惧して会期前に公式日程から自らの名を削除したブランドもあれば、会期中に急遽ショーをキャンセルするブランドもあったし、確かにいつもとは少しく違った光景だったが、それでもショーはアッサリとしたほど普段通りに行なわれたというのが実感だ。時節柄、概ねショーは粛々と進んで行ったと書くことがある意味では一興かとも思うが、パリはそう易々とは挫けない。パリは手強い。俄然ウイルスの脅威に負けないだけの創作のエゴの強さと、憂鬱な気分を払拭するかのような晴れがましさを以て、我々をいつも以上に歓待してくれる。勿論、デザイナーたちが半年前より不測の事態に備えていたわけではないのだし、こうした解毒剤的な効用は、個々の作り手の提言というよりは、そもそもファッションが本質的に持っている内的攻撃性、つまり一種の強かな側面(叛逆や挑発のような)が大いに影響しているのだろう。だからこそパリは手強い。パリは今回、個々人の人間らしさに照準を定めている。ラグジュアリーな服にとって諸刃の剣となり兼ねないサステイナビリティーとか、エクスクルーシブの対義語であるインクルーシブとか、遅きに失する観があったダイバーシティーといった曖昧な惹句が飛び交っていた前回との大きな違いがそれだ。
「個」に向き合うデザイナーたちのアプローチは、我々の脳裏に様々なイメージとビジョンを呼び起こす。その代表例の一つが「ディオール」。眼の覚めるような配色が明確なスローガンを誇示する演出そのものが明快な提言を投げ掛けている。会場入り口で我々を迎えた「I Say I(私は私を言う)」の警句は、イタリアの女性解放運動家カルラ・ロンツィの言葉で、もちろん、服にもマニフェストの如くプリントされている。「CONSENT(同意)」も象徴的な一言。マリア・グラツィア・キウリは、このカルラ・ロンツィのフェミニスト宣言より自由な着想を得て、力強い自己肯定の物語を編んでいる。但しそれは、マニフェストといったありきたりの情熱とか、伝統的でステレオタイプ化したものとは異なる、極めて軽やかでモダンなスタイルだが、それでいて服の印象は、どこか懐古的でファンタジックなのだ。このファンタジーは、マリア・グラツィアの自らの少女時代(1970年代のローマ)や彼女の母の家業(クチュールアトリエ)からの影響に端を発し、彼女の内面で絶え間なく変化し、変化することで自らを創造し、自らを創造することによって生き続けて来たものに違いない。やはり女性デザイナーは逞しい。
「バレンシアガ」のデムナ・ヴァザリアもアクの強さを誇示している。彼の野性的な感覚は生得のものであるが、彼は知的な操作によってそれを琢磨した。ぶっつけに投げ出された感覚もなければ、生地のままの素顔を見せることもない。必ずや理知のベールがそれを覆い、創作的技巧が詩人的情緒を制御しているように見える。この場合の理知のベールとは、オートクチュールメゾンとしての創作的遺産とアトリエの匠を言う。今回は、暗闇に呑み込まれた巨大な劇場を模した空間が会場。セットが凄い。階段状に設置した跳ね上げ式の座席の、最前列の背もたれは半ばドス黒い重油に水没していて(実際は床一面に水が張られていた)、この不気味な液体が実際の客席の際まで迫るかのような仕掛けである。天井を覆い尽くしたLEDが映し出すパノラマも幻想的で、例えば、風に押し流される暗雲、赤黒く焼けただれた空、無人の浜辺の潮の満ち引きなどの映像は、あたかも創世神話か世界の終末を想起させる大迫力。緊張と弛緩、醜と美、動と静、禁欲と官能を大胆に対比させ、緩急を放胆に掛け合わせた形はネオゴシックと呼ぶに相応しい彫刻的な出来栄え。床まで届く長さの法服のような漆黒のコートから天を突くような怒り肩のジャケット、ゴムのようにピッタリと身体にまとわり付くパンツスーツ、架空のサッカーチームのユニホーム、硬いコルセットの下部構成を排除したイブニング。伝統や厳格さにアスレチックの要素を織り交ぜたデムナの創作流儀は、物の見事にクラシックの慣習の厚い殻を粉々に砕いてしまった。バレンシアガは2020年7月よりクチュール部門を復活させるが、今回のデムナの身体に向けられた新たな言及は、その再開を自ら言ほぐかのような提言だった。
他方、「サンローラン」の変貌ぶりも特筆される。アンソニー・ヴァカレロは精緻な手刺繍を封印。その代わりに、パープル、ブルー、レッド、マスタード、ピンクなどの配色の妙に主眼を置いた。そう言うとコンサバ感が漂うが、もちろん彼も、持ち前のヒリヒリするようなモダニティーを用意している。ビザールでフェティッシュな香辛料をエレガンスの皿に存分に効かせたのだ。透けるように薄くなまめかしいラテックスと、てらてらと輝くパテント素材が全編通して使われている。構築的なジャケットの形とニュアンスのある配色は、イヴ・サンローランの往年の「リヴ・ゴーシュ」を彷彿させるものだったが、フェティシズムとクラシック、夢と現実といった本来同じ平面で出会うことのない世界が一つに溶け合っていて、そこにはアンソニーの創作的な現実認識が決然と投影されているから古臭く見えない。
情熱的でロマンチックな路線より(良い意味で)現実的な世界にシフトしたという点では、「ヴァレンティノ」もまた、新たな着地点を求めたようだ。ピエールパオロ・ピッチョーリの言葉としてコレクションノートを引用すると、「人はそれぞれ異なると同時に、みな同じでもあります...(今回の創作は)年齢や性別、人種、気質にかかわらず、人間の感覚や感情を表現し、高めるために個人の人間らしさにフォーカスすることから始まりました」とある。厳格なオフィサーコートを着た女性モデルとシースルーをまとった男性モデルが舞台を交錯するが、男性モデルを女性化させることや、性差の際を曖昧にすることだけが主眼ではないのだろう。ジェンダーの意味をみだりに水増ししようとはしない。他者の眼(客観)によって性差の微妙な空隙(くうげき)が埋められるよりも、着る側の想像力(主観)によって埋めることの方が自然とする考えがある。そこには作り手の妙な押し付けなどはない。男物のユニホームを引用したのは、決してこのコレクションの単なる装飾、一つのアクセサリーなのではなく、彼の意図した詩的情緒の目的地点なのである。詩的と言ったが、それは、現実を見るピエールパオロの心象風景に密接しながら、ファンタジーとは違ったある程度の客観性を保ち、かつその創作精神の根底にある一種の流動するものを指す。
(おわり)
取材・文/麥田俊一