UA入社はいつでしょうか?

95年に新卒で入社しました。当時UAは今のような大きな会社ではなく、 新卒が珍しかった時代。魅力的なベテランアルバイトの方々の同期も多く、素敵な "服屋"の先輩達や同僚達が沢山いて、おしゃれと仕事も教えていただき、みなさん本当に素敵で学びの多い日々でした

ファッション業界を選ばれた理由を教えてください

とにかくファッションが好きで、ずっとファッションに関わりたいと思っていたんです。ただ、その時代を追う"いま"のファッションも好きだったのですが、大人になっても関われるような感じが良いなと。当時は、ドリス・ヴァン・ ノッテンやアン・ドゥムルメステール、ダーク・ヴァン・セーヌなどの、アントワープ王立芸術学院出身デザイナーのアントワープ・シックスの走りでしたし、伊勢丹やバーニーズ ニューヨークなどでもインポートブランドブーム。そういう憧れと時代背景もあって、スタイリングでセレクトできるファッション系を志望していました

他業種は受けなかったのですか?

カルチャーが好きでしたので映画会社やレコード会社とかも。学生時代からミーハーでした(笑)。当時は、バブル崩壊の就職氷河期で、とりあえず興味本位な感じです。本命はもちろんファッション業界でしたし、しかも憧れのUAが新卒募集をしていた上に、運良く内定を頂き、大喜びでした。余談ですが、UAに内定が決まった後、マルタン・マルジェラが世界各国でゲリラショーをやっていて、日本でも原宿のUA本店で開催することになったんです。その時のショーって、各国の太鼓をオープニングミュージックにしていたのですが、実は私、地元で町内会的な和太鼓チームに入っていて、履歴書の特技の欄に"和太鼓"と書いていたのをUAの方が覚えていたようで"やってくれませんか?"と。それで入社前にマルジェラのショーのオープニングで和太鼓を叩いたんです。なので"和太鼓入社"的な感じですね(笑)

マルタン・マルジェラのショーでの和太鼓演奏(入社前)

最初の配属はどちらに?

当時、二子玉川にあったショッピンセンターで、レディスやメンズ、ドレス、カジュアルなどが分かれていない、小さいスペースに全てが詰まっている、UAの中では小規模な店舗でした。先輩スタッフもファミリー感覚で丁寧に仕事を教えてくださって、最初はレディスしか分からなかったのですが、メンズスーツの接客や着こなしのバランスなども、いろいろ全般的に教えていただきました。あとは顧客型店舗でもあったので顧客へのアプローチだったり、新人ながらもVP(ビジュアルプレゼンテーション)や陳列にも関わったり、オールマイティーに動いていた事もあって、なんとなくファッション店舗の仕事全般が把握できました。本当に、とても良い経験だったと思います

その後は?

二子玉川店には1年半くらいいて、その後、有楽町西武店に異動したのですが、そちらはまるまるワンフロアの大型店舗でした。分業制で回転型も初めての経験でしたね。上階に映画館があって、その流れでのお客様も多く、とにかく人の流れやお店のあり方、お客様との関わり方、数字の取り方が今までとは全然違っていました。人数も多く、同期の年齢のスタッフもたくさんいて、そこで切磋琢磨している感じがとても楽しかったです

有楽町西武店では、どのような役職に?

ブランドリーダーを担当しておりまして、そこも1年ほどいてから、二子玉川の店舗のリニューアルのタイミングでウィメンズ担当として戻り、立ち上げで少しいてから、またブランド担当で更に勢いの増した有楽町に(笑)。当時、一番店となった有楽町店は、現在ほどのSKU(ストック・キーピング・ユニット/在庫最小管理単位)もなく、でも売り上げも作らないといけないため、数字が取れる店舗別注の制作にも関わらせてもらいました。接客でも沢山のお客様に支持されるようになって、海外出張の同行など、UAの中でもグローバルに働かせてもらいました。本当に有り難かったです。メインは有楽町でしたが、二子玉川と行ったり来たりして、少しだけ店長を経験させて頂いた後に、アシスタントバイヤーで本社に異動しました。結果、店頭には7年いましたね

本社では、どのような仕事をされていたのですか?

バイイングとオリジナルレーベルのディレクターもしていました。でも、やっぱりミーハーなので(笑)、小野瀬慶子さんが作られた"チェンジズ・ユナイテッドアローズ"の存在も気になっていて、インポートも大好きだったので、チェンジズに異動させていただいたんです。デザイナーズとかファッションとか楽しくて、とにかく刺激いっぱいでしたね。そんな刺激と同時に改めてバイヤーという仕事にがむしゃらに取り組んでました(笑)

パリコレへの出張はその時点から?

そうです。元々、本社の時点で出張には行っていました。ただ、その時はトラッドも含めてだったので、よりデザイナーズとか、コレクションとかになったのはチェンジズの時代ですね。その後、チェンジズのエッセンスがUAに統合されて、ウィメンズのバイヤーに戻ったという感じです。パリをはじめ15年ほど海外にバイイングに行きました

UAのバイヤー時代で印象に残っていることはありますか?

本当に沢山あり過ぎて語り切れませんが、ファッション史に残るメモリアルなショーをリアルに体験でき、その感動が未だに忘れられず、私のファッションの情熱のベースとなっています。クリエーション、作り手側へのリスペクトと憧れも培われました。また違った意味での印象的な点としては、家電の進化です(笑)。アナログの最初の頃は、バイイングも何百枚もフィルムで写真を撮って、プリントアウトも出来ず、記憶力勝負(笑)。デジタルへの進化は助かりました。そしてもちろんファッションもパワフルで大きく進化した良い時代に、美しいもの、本物も沢山学び、貴重な体験をさせて頂いたのは、私の大きな財産です

メディアにもよく出ていましたよね

コレクションを体感させて頂いている立場として、メディアに対してUAの解釈と方向性をレポートする機会は、拙い私にとって責任重大なミッションであり、良い経験でした。正直、毎回ドキドキしていましたが、そのお陰で常にマーケティングとトレンドを整理し、分析する癖を付けられて、その後の仕事にも役立てていると思います

繊研新聞の記事

そんな中でUAを離れた訳ですが、その理由は

両親が他界したり、自分が離婚したり、自分の人生、プライベートを見つめ直す機会があったことも大きかったですね。そしてUAが大きく成長する中、それも嬉しく誇らしい一方で、"私らしく生きたい"という私自身の気持ちと仕事でのスキルアップの方向に少しギャップを感じたというのもあります。ウィメンズ館を閉め、組織の体制が変わるという発表があった時に"今かも!"みたいな思いもありました。一生バイヤーをやっていたくて、一生現場が楽しいと思っていましたが、私の後にUAを守ってくれる人も育っていたし、自分自身は1000年も生きられないですから(笑)。ただ、UAは大好きで心地良過ぎるので、定年までいてしまいそうでしたが、自分が活かせるこのタイミングも何かの運命なのかもと!

それでも離れたのですね?

中島家は家系的にせっかちで生き急ぎ気味なので(笑)、40の時に"後半戦だ!!"と思った時に、この出来事もあり、"私らしく生きるには?"とやっぱり考えたんです。自分らしく生きるには"物事がそれほど大きくなくていい"と思ったし、とにかく楽しく生きていきたかったんですね。両親の子供は私だけですが、兄弟いますけど(笑)、UAの子供は私だけではないですから。あと、離婚して"愛って、一生じゃないな"と思いましたし(笑)

独立されてアヴェックアッシュとしては5年目になりますが、どのような事から始められたのですか?

退職を決めた時に、UA時代からお世話になっていたグルッポタナカが既に阪急のアドバイザーを担当されていて、"モードフロアのアドバイザーを一緒にやりませんか?"とお話をいただいたんです。大阪は、巡回店などで毎シーズン行っていましたし、関西の百貨店のトップである阪急の仕事でしたので、喜んで引き受けさせていただき、バイイングのサポートをやる事になりました。大好きなデザイナーの方々やコレクションにも関われ、トレンド情報やマーケット情報を共有出来る嬉しさもあり、とてもありがたかったです

現在は、具体的にどのような仕事が中心なのですか?

フリーでのバイイングをメインにしながら、イベント企画やマーケティング、コラボレーション企画、ブランドのアドバイザーのほか、エシカル系のECショップのバイイングディレクターなど、多岐に渡っています

ファッション系だけではなくエシカル系もやられているんですね

バリバリのファッション大量生産時代も経験した上で、その後もファッションウィークで様々な海外や時代の変化を感じながら、楽しんでいましたが、特にコペンハーゲンをはじめ、この数年での世界のファッ ション業界でのサステイナブルへの意識の高まりと進化もあり、その大切さを痛感したのです。更にこのコロナをきっかけに、ファッションに対してもライフスタイルに関しても、私自身の価値観を改める良い機会になったと思います。そんなコロナの少し前から、きちんとサステイナブルを学びたいとも思っていたので、コロナ中にエシカル講座を受けたり、今後の仕事にも活かして行きたいと考えていました。その時に相談した友人が、今関わっているエシカル系ECサイト"ELEMINIST(エレミニスト)"の創立者でありプロデューサーです。立ち上げる前から、彼女の想いと情熱を知っていたので、その素晴らしい活動に加われた事も嬉しいです。サイトはまだオープンしてから1年くらいですが、真摯に丁寧により良き価値のあるモノ選びを行っていて、ファッションも少しずづ開拓しながら、これまでとはジャンルの異なるバイイングにも関わり、とても新鮮です。プロフェッショナルなチームと日々学びながら、知識と視野を広げていけたらと思っています

エシカルやサステイナブルは、やる側のスタンスが明確じゃないとなかなかうまくいかないですよね

私、昔からファッションへの愛もそうですが、それを生み出すデザイナーの方々へのリスペクトと愛もいっぱいで(笑)。沢山の素敵な商品を沢山作って頂いても、バジェットもスペースにも限りがあり、全部バイイングは出来ないので、泣く泣く諦めるケースも沢山でした。溢れる商品とクリエーションの才能も、もったいなく感じたり、販売サイクルの早さと在庫問題の現実も切なく感じていました。そういった様々な矛盾がある中で、ファッション業界も今、急ピッチで取り組んでいますが、ファッションの素敵さを伝えつつ、どう楽しく、そして環境にも優しく、エシカルなより良い物に繋がるように出来ないかなと。私自身も知識を深めながら、ファッションの仕事の中でも活かして、良い形で共にライフワークにしていきたいと考えています。

将来的に考えていることはありますか?

"これ素敵じゃない?"というトキメキの共感が大好きなので、これからもファッションと共に、素敵な価値のある物を紹介していきたいです。また、何かを繋げるツールでもありたいと考えて活動しています。でも、すでに 自分自身で調べられるツールもありますし、その人自身のフィルターもありますからね。何が良いですかね(笑)

審美眼がありますし、これまで培ってきた経験は活かせますよね

そうですね。これまでの恵まれた時代と環境での有り難い経験が糧になっています。その糧を、私を信頼して関わって下さる方々に、誠意を持って役立てていきたいです。そして、これからも更に楽しみながら私なりの審美眼を磨いて行きたいですね。いくつになってもまだまだ日々勉強。これからも自分の変化と進化を楽しみたいと思います

写真/野﨑慧嗣
取材/久保雅裕(くぼ まさひろ)
取材・文/カネコヒデシ

中島英恵

大学卒業後、(株)ユナイテッドアローズに入社。店舗での販売・店長を経験後、国内外のデザイナーズをメインにバイヤー兼仕入責任者を15年間勤める。
明朗活発、大好きな「ひと」「モノ」へのコミュニケーション力で、デザイナーの方々との親交も深い。 現在はフリーランスとして、(株)BIGI/ デパリエをはじめ、数社のバイイング・コンサルタント・ディレクターMD・マーケティング等、ファッションを軸に多岐に渡り活動中。

久保雅裕(くぼ まさひろ)encoremodeコントリビューティングエディター

ウェブサイト「Journal Cubocci(ジュルナル・クボッチ)」編集長。杉野服飾大学特任教授。繊研新聞社在籍時にフリーペーパー「senken h(センケン アッシュ)」を創刊。同誌編集長、パリ支局長などを歴任し、現在はフリージャーナリスト。コンサルティング、マーケティングも手掛ける。2019年、encoremodeコントリビューティングエディターに就任。

Journal Cubocci

カネコヒデシ

メディアディレクター、エディター&ライター、ジャーナリスト、DJ。編集プロダクション「BonVoyage」主宰。WEBマガジン「TYO magazine」編集長&発行人。ニッポンのいい音楽を紹介するプロジェクト「Japanese Soul」主宰。そのほか、紙&ネットをふくめるさまざまな媒体での編集やライター、音楽を中心とするイベント企画、アパレルブランドのコンサルタント&アドバイザー、モノづくり、ラジオ番組製作&司会、イベントなどの司会、選曲、クラブやバー、カフェなどでのDJなどなど、活動は多岐にわたる。さまざまなメディアを使用した楽しいモノゴトを提案中。バーチャルとリアル、あらゆるメディアを縦横無尽に掛けめぐる仕掛人。

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