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特集
2015.07.17
シュガー・ベイブとその時代の物語

アルバム『SONGS』

シュガー・ベイブが唯一残したアルバム『SONGS』。さまざまに語られるこの伝説の名盤がつくられた時代。その現場にいた長門さん、田家さんはこの作品をどう捉えていたのか? 今回もおふたりの対談からお送りします。

この音楽が好きで、
この音が出したくて

1974年秋から翌1975年春までレコーディングされていた、シュガー・ベイブ唯一のアルバム『SONGS』は、1975年4月25日に発売された。シングル「DOWN TOWN」との同時発売だった。
「アルバムからは40年ですけど、山下くんが大貫妙子に“バンドやろうよ”と声をかけて。そこから42年ですから。いろんな偶然というか……必然だったのかもしれないですけど、それが重なってシュガー・ベイブが出来て。一枚だけで解散して……山下くんとター坊(大貫妙子)は才能があるから、なんらかの形で世に出て認められたとは思いますけど、シュガー・ベイブが出来たのは、やっぱりあの時、あの場所があったからで。それを考えるとね、何か不思議ですよね」(長門)

シュガー・ベイブは“お金の匂いがしない”音楽だと田家氏は言う。
「お金の匂いがするっていうのは、新しい人に向かって業界の人が“お前売れるよ”っていう意味合いで使うことなんでしょうけど、そういう意味じゃなくて。商業的な野心であるとか、“これで金儲けしてやろう”って感じがないっていうんですかね。その純粋さ。だから未熟であり、経済的にも恵まれていない。不遇な環境でやってるんだけど、この音楽が好きで、この音が出したくて、こういうことが歌いたくて、このメンバーで何かやりたい……その気持ちが音楽になってる。その意味でパンキッシュなところもあるんだと思うんですよね」(田家)
「それをね、大滝詠一さんが厳しくも温かい目で見守ってくれたんですよ。あのときに、あのマルチに記録してくれた。これがやっぱり素晴らしいですよね」(長門)

『SONGS』の中でも他アーティストによるカバーが多く、最も有名な楽曲のひとつが「DOWN TONW」だが、元々、これはシュガー・ベイブのための曲ではなかった。
「ザ・キングトーンズの15周年の企画アルバムの話があったんです。そのころ僕も、キャラメル・ママの仕事やってましたから、リズムセクションをキャラメル・ママ、曲は若手の曲を、というこことで、山下くんにお願いすることになった。その頃、伊藤銀次が笹塚の事務所に、東京で仕事があるときに、福生に帰るのが大変なので、泊まりに来てたんですね。で、山下くんと銀次で、3曲かな? デモテープを録って。そのうちの1曲が“DOWN TOWN”だったんですよ。結局、その企画自体が流れて。もし、ザ・キングトーンズが歌っていたら、シュガー・ベイブが“DOWN TOWN”をレコーディングしたかどうかは分からないですよね」(長門)。

「DOWN TOWN」には、こんな記憶もあるそうだ。
「僕は実はあの時、レコーディングの、ほぼ最初の週……“DOWN TOWN”で野口のドラムにけっこう時間がかかったんですね。グルーヴがなかなか出せないで、ずっと叩き続けてましたから。それで僕がスタジオの中に入って、テンガロンハットか何かを被ってたんですけど、それを人間メトロノームみたいにして、野口の前に立ってそれを振って、“野口がんばれ!”みたいな。彼もそんな器用な人じゃないし、ずっとドラム叩いてたわけじゃなく、山下くんの特訓を受けて、シュガー・ベイブを組んで初めて叩いたくらいですからね。あれはホント必死でしたね。DOWN TOWNを聴くたびに、その光景が思い浮かびます」(長門)。

長門氏は、『SONGS』レコーディング中盤から、シュガー・ベイブの担当を離れ、シュガー・ベイブと同時に担当していたキャラメル・ママ(後のティンパン・アレー)のレコーディング現場サポートの、やがて専任者となる。
「柏原卓がいて、前田祥丈さんもいて、事務所も笹塚にある。これは何とか大丈夫だろうと。全国ツアーも始まり、ティンパン・アレーのほうは僕がやるしかないということで、専属になるんです」(長門)
(つづく)



プロフィール

長門芳郎(ながと・よしろう)
シュガー・ベイブ、ティン・パン・アレー(細野晴臣/鈴木茂/林立夫)のマネージャーとして活動。その後、1970年代後半~1980年代に南青山のレコード店、パイド・パイパー・ハウスの店長~オーナーを務める。その傍ら、ピチカート・ファイヴのマネージメントや海外アーティストのコンサートプロデュースなども手掛けた。現在、ラジオ『ようこそ夢街名曲堂へ!』(K-MIX)に出演のほか、音楽雑誌『レコードコレクターズ』にて『長門芳郎のマジカルコネクション』を連載中。8月1日から9月13日には、横浜赤レンガ倉庫1号館2階スペースにて開催される『70’sバイブレーションYOKOHAMA』にて、パイド・パイパー・ハウスが復活する(MUSEUM OF MODERN MUSIC)

田家秀樹(たけ・ひでき)
1969年にタウン誌のはしりとなった『新宿プレイマップ』の創刊編集者としてそのキャリアをスタート。雑誌、ラジオなど通じて、日本のロック/ポップスをその創世記から見続けている。『夢の絆/GLAY2001ー2002ドキュメント』『オン・ザ・ロード・アゲイン/ 浜田省吾ツアーの241日』『豊かなる日々/吉田拓郎・奇跡の復活』など、著書多数。現在 『J-POP TALKIN’』(NACK5)、『MIND OF MUSIC・今だから音楽』(BAYFM)、「J-POP LEGEND FORUM」(FM COCOLO) のパーソナリティや、『毎日新聞』『B-PASS』『ワッツイン』などでレギュラー執筆中。

風都市解散後、シュガー・ベイブが所属していた事務所「テイクワン」が入居していたビルの周辺。ここ笹塚駅前の一部は今でも70年代の面影を残す。前回でも触れたがこちらのビル、80年代にはリリー・フランキーが住んでいたらしい