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特集
2015.07.10
シュガー・ベイブとその時代の物語

シュガー・ベイブのコンサート活動

シュガー・ベイブはワンマン、イベント含め、数多くのステージに立っている。いくつか残された音源からそのライヴ演奏を今でも耳にすることができる。当時の状況は、果たしてどんなものだったのか? 今回も長門芳郎さん、田家秀樹さんの対談からお送りします。

コアなファンの間では
話題になっていた

風都市の解散の後、長門氏とシュガー・ベイブは、拠点を音楽事務所テイクワンに移す。ジャズピアニスト・山下洋輔のマネージャーであった柏原卓氏と、当時、風都市のスタッフで、現在、編集者、音楽ライターとして活躍する前田祥丈氏がそこに合流することとなった(ちなみにテイクワンが入居していたビルには、1980年代には作家・イラストレーター・タレントのリリー・フランキーが住んでいて、小説『東京タワー』の舞台となったことで有名だ。長門氏によると「僕らは70年代ですけど、リリー・フランキーは80年代に、そのマンションに住んでいたんですね」とのこと)。このテイクワンを拠点として、シュガー・ベイブはさまざまなステージに立つ。

1973年9月21日、文京区・文京公会堂(当時)で行われたはっぴいえんどの解散コンサートへの出演を皮切りに、当時のシュガー・ベイブのライヴを田家氏はいくつか目撃している。
「文京公会堂の後は日本青年館のA・ROCK祭か、日本都市センター・ホール(当時)の三ツ矢フォークメイツ・フェス、野音も見てます」。

放送作家として多忙な日々を過ごしていた田家氏。その担当番組には『三ツ矢フォークメイツ』という、当時のフォークのアーティストをメインに紹介する番組もあった。
「『三ツ矢フォークメイツ』では、HOBO’Sコンサートのライヴ音源を使って番組も作りました。そのあとは新宿厚生年金会館小ホールの“シュガー・ベイブ・セカンド・コンサート”(1975年1月24日)。ユーミンがゲストに出たでしょ? パラシュートスカート穿いて……このコンサートは金曜日ですね。当時レギュラーが12本で、ワイド番組を担当していると、スタジオを離れられないんですよね。でも金曜日は外に出られたんだな、きっと。それだけが理由じゃないんですけど、ラジオの仕事をやめちゃうのは、コンサートにいけないというのもあったんですよね」(田家)。
「とにかく、レコードが出る前ですから、渋谷ジァン・ジァンの昼の部で、お客さんが4~5人しかいないこともありましたよね。バンドのほうが人数が多いという……(笑)。しょうがないですよね、誰も知らないですからね。(シュガー・ベイブは)当時、日本のロック界、音楽界にまったく居場所はなくて。ああいうバンドは他にいなかったですからね。雑誌も評価してくれるところはあまり多くなかったですし、分からなかったと思うんですよね。ああいうバンド、『SONGS』みたいなアルバムが突然出てきて」(長門)。

ラジオでは好きなディレクターがかなりいて、よくかけていたと田家氏は言う。
「大貫妙子さんに、後にソロになってからですけど、“シュガー・ベイブは好きで、何度か見てたんですよ”って言ったら、“何でその時原稿書いてくれなかったの?”って言われて。“僕はその時放送作家をやっていて、ラジオではたくさんかけましたよ”って言い訳をね(笑)したんですけど」(田家)。
「LF(ニッポン放送)もよくかけてくれたと思いますね」(長門)
「だから(『SONGS』のデモテープのために)スタジオを貸してるんですよね。荻窪の解散コンサート、2日目に行ったんですけど、オールナイトニッポンの2部が録ってましたよね」(田家氏)
「ニッポン放送の亀渕さんや藤井さんや、バックアップしてくれる方がけっこういらっしゃって」(長門)。

そしてシュガー・ベイブは1976年に解散する。同年3月31日、4月1日に荻窪ロフトで行われた解散コンサートは、超がつくほどの満員だった。
「カウンターの中にも人がいっぱいいて。仙台から来てた人もいた。ステージ上から“仙台から来てる人もいるのか”って声をかけられていて。その時に“こんなに人が入ってて仙台からも来てるのに、何で解散するんだろう?”と思ったのを覚えていますね。今思えばロフトなんで、たくさんともいえませんけど(笑)」(田家)
「ワンマンは割と入ったんですよ。その人たちがレコードは買ってくれているんだろうけど、当時それ以上の広がりはなかったのかなって」(長門)

発売元であるエレックレコードの倒産など、状況的な不運も重なり、『SONGS』は商業的には成功しなかった。しかし残されたこの音源はその後、長い時間を経てなお聴き継がれる名盤となる。次回はこの『SONGS』についてのエピソードをお送りする。
(つづく)



プロフィール

長門芳郎(ながと・よしろう)
シュガー・ベイブ、ティン・パン・アレー(細野晴臣/鈴木茂/林立夫)のマネージャーとして活動。その後、1970年代後半~1980年代に南青山のレコード店、パイド・パイパー・ハウスの店長~オーナーを務める。その傍ら、ピチカート・ファイヴのマネージメントや海外アーティストのコンサートプロデュースなども手掛けた。現在、ラジオ『ようこそ夢街名曲堂へ!』(K-MIX)に出演のほか、音楽雑誌『レコードコレクターズ』にて『長門芳郎のマジカルコネクション』を連載中。8月1日から9月13日には、横浜赤レンガ倉庫1号館2階スペースにて開催される『70’sバイブレーションYOKOHAMA』にて、パイド・パイパー・ハウスが復活する(MUSEUM OF MODERN MUSIC)

田家秀樹(たけ・ひでき)
1969年にタウン誌のはしりとなった『新宿プレイマップ』の創刊編集者としてそのキャリアをスタート。雑誌、ラジオなど通じて、日本のロック/ポップスをその創世記から見続けている。『夢の絆/GLAY2001ー2002ドキュメント』『オン・ザ・ロード・アゲイン/ 浜田省吾ツアーの241日』『豊かなる日々/吉田拓郎・奇跡の復活』など、著書多数。現在 『J-POP TALKIN’』(NACK5)、『MIND OF MUSIC・今だから音楽』(BAYFM)、「J-POP LEGEND FORUM」(FM COCOLO) のパーソナリティや、『毎日新聞』『B-PASS』『ワッツイン』などでレギュラー執筆中。

横浜市民ホールで行われたイベントのチラシ

1975年1月14日に横浜市民ホールで行われたイベントのチラシ

ロック喫茶「ディスクチャート」

シュガー・ベイブ結成のきっかけとなったロック喫茶「ディスクチャート」は、現在ジャズ喫茶「いーぐる」として営業中。オーナーの後藤雅洋氏によると、「内装は当時とほとんど変わっていない」とのこと